見つめる日々

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2009年12月18日(金) 
このところ「自分の場所」を作ってそこで眠っていた娘が、ママの布団をあっためてあげるとやってきて、結局そのまま私に抱きついて眠ってしまった。本を読もうと思っていたのだが、娘の頭越し読むのも憚られ、私も早々に眠ることにした昨夜。途中何度か目を覚まし、悶々としたものの、娘の足は私の足に絡みついたまま。身動きとれず朝まで。大き目の布団でよかった。そうでなければどちらかが凍えていたに違いない。それでもやっぱり絡み付いている足に、どうしようかと思ってうとうとしていると、友人から電話が。旅先で過呼吸を起こしてなかなか眠れなかったらしい。でも声に張りがある。きっと一人旅が楽しいに違いない。そう思いながらしばしおしゃべりをする。
顔を洗い、いつものようにお湯を沸かす。さぁ今日もハーブティをと思ったところで地震が起きる。結構長い。どうしようか、このままここに立っていて大丈夫なんだろうか、と思っていると、娘が起き出す。ママ、地震だ。うん、地震だね。そう言い終えたところで地震が終わる。娘は早速寝床に戻っていく。私は窓を開け空を見上げる。
うっすらと空と街と全体にかかる薄雲。それでも今日は晴れるのだろう。気配がそう私に伝えてくる。明け始めた東の空の色が、奇妙に茜がかっているのが少し気に懸かる。そして西の空は。まだまだ濃紺の中。くっきりと西と東、分かれる空の色。
ようやくハーブティをいれ、私は一本煙草を吸う。音楽のスイッチを入れると、シークレットガーデンのRaise Your Vicesが一番に流れてくる。ちょうど昨日から私の心の中で繰り返し流れていた曲。私はメロディに併せて小さい声で口ずさむ。美しい旋律とハーモニーが、冷たい部屋の中、こんこんと、まるで水流のように流れてゆく。

白く弾ける波を、どのくらい見つめていただろう。何匹もの魚が飛び跳ねては戻ってゆく。灰藍色の海。私はいい加減体が冷えてきたことに気づき、その場を離れる。そして行きつけの喫茶店へ。たっぷりミルクの入った、濃い目のカフェオレを啜る。
「私たちは現在との関係の中でのみ、自分自身を理解することができます。そしてその関係そのものが導師なのであって、導師は私たちの外部にいるのではないのです。もし私たちがその関係を理解していなければ、導師の言うことはすべて無益なのです。なぜなら、もし私が関係――私と所有物や他人や観念との関係――を理解しなければ、一体誰が私の心の中の葛藤を解決することができるでしょうか。この葛藤を解決するためには、それを自分で理解しなければなりません。」「あなたが自他の関係の中であなた自身を注意深く観察する時、自己認識が生まれてくるのです。生きることは互いに関係していることなのです。」「関係というものは恐れのない親交と、お互いを理解し、直接に話し合う自由を意味しています。関係は相手の人と親しく交わるという意味なのです。」「愛の中には関係というものがないのではないでしょうか。あなたが何かを愛していて、その愛の報酬を期待しているときに初めて関係が生じるのです。あなたが愛している時、つまりあなた自身をあるものに、完全に全体として委ねた時には関係は存在しないのです。」「愛の中には摩擦もなく、自他もなく、完璧な一致があるのです。それは統合の状態であり、完全なのです。完全な愛と共感があるとき、幸福で喜びに満ちた稀有な瞬間が訪れるのです。」「関係を理解するためには、まず初めにあるがままのものと、私たちの生活の中で種々様々に微妙な形をとりながら実際に起こっていることを理解することが大切であり、また関係とはどういう意味であるかを理解することが重要なのです。私たちの関係は自己啓示なのです。私たちが安逸の中に浸っているのは、私たちのあるがままの姿を暴露されたくないからです。そのとき私たちの関係は、そこに潜んでいる驚くべき深遠と意義と美を失ってしまうのです。愛があるときにのみ、真の関係が存在するのです。しかし愛は満足の追求ではありません。愛は無私との完全な共感――それも少数の人間同士のものではなく、最も高いものとの共感――があるときにのみ存在するのです。そしてこの共感は、自己が忘れられてしまったときにだけ起こるものなのです。」(クリシュナムルティ「自我の終焉」より)

娘が帰宅するのと入れ替わりに、私は娘の学校へと向かう。今日は面談の日。教室の前へゆくと、天井から何枚もの木版画が垂れ下がっている。その中に娘のものを見つける。ペンギンを木版で彫ったらしい。九枚の紙にそれぞれ刷り、それを繋げて大きな一枚にしている。色とりどりの木版画。拙い掘りでありながらも、それらは実に生き生きとしており。私はしばし見惚れる。中には、絵を繋げることを前提にして、繋ぎ目にうまく絵を組み入れている子供もいる。二摺、三摺し、絵の具にはない色合いを出している子供もいる。彼らにとっては生まれて初めての木版画。見ているのがとても楽しい。
順番が回ってきて、担任と向き合う。いろいろご迷惑おかけし申し訳ございませんでした、と切り出す担任。もう過ぎたことはやめましょう、と笑う私。最近学校ではどうでしょう、と訊ねる。こんなにも行動的な子供だったのかと、今更ですが感じています、一学期の骨折はだから、とてもとても我慢していたんですね、と、担任。私は返事をせずただ聴いている。それから各教科のことなどもぽつぽつと話す。だいたい予想していたことなので、私もその範囲内で言葉を継ぐ。
無事に時間は終了し。見送られながら教室を去る。教室を出る時、ふわり風が何処からか吹き込み、垂れ下がっていた絵が一斉に揺れる。

先週末からずっと、じじばばにクリスマスプレゼントを買いに100円ショップへ行きたいと言っていた娘。勉強が早く終わったら行こうかと声をかける。途端に顔が華やぎ、娘は一心に漢字練習に取り組み始める。算数と理科はもう私が学校にでかけているうちに終えたらしい。
もう日も堕ちる頃、私たちは自転車を走らせる。坂を上り、坂を下り、そうして隣町の100円ショップへ。私は娘を解き放ち、好きに選んでおいでと見送る。娘は売り場を行ったり来たりしながら選んでいる。じじにはこれ、ばばにはこれ。それからここでは買えないけど、苺大福と大福をそれぞれ欲しいって言ってたからそれも。娘はぶつぶつ呟きながら、一生懸命品物を選んでいる。
一方私は、娘へのプレゼント用の包装紙をこっそり買う。あとはクリアファイルを。娘のプリント整理用に買っておくことにする。
帰り道、そのまま帰ってもよかったのだが。「最近アイスとか食べてないよね」と言う娘のリクエストに応え、店に立ち寄る。ソフトクリームを乗せたメロンソーダを、おいしそうに食べる娘。どんなに寒くても、おいしいらしい。氷までがじがじと齧って食べている。窓の外見やれば、もうすっかり暮れた空。私は娘に声をかけ、立ち上がる。そして帰り道を急ぐ。
納豆と刻んだ葱を、これでもかというほどといで。酢を少し入れると、粘りは一層強くなるから、途中で酢をぽとり入れ。その間に大鍋では極太うどんを茹でている。今日はひっぱりうどん。それと、昼間作っておいた白菜としいたけの中華スープを。
私たちは、はふはふ言いながら、納豆に絡めてうどんを啜る。途端に体がほくほくとあたたまる。冬の夜のひととき。

もうすっかり辺りは明るくなり。私はその空の下、薔薇の樹を見つめる。病葉はないか。やはりあった。ひとつ、ふたつ、みっつ。私は摘んでゆく。新芽の、一番奥の方がこぞって粉を噴いている。粉を落とさぬよう、気をつけながら、私は摘む。
アメリカン・ブルーとラヴェンダーは相変わらず。病気になることもなく、かといってぐいぐい育つわけでもなく。淡々と冬を味わっているかのよう。私は少量水を遣る。
ママ、もうそろそろ時間だよ。部屋から娘の声がする。今日は学校、実践授業の日だ。今日はまた何かしらの役割が回ってくる日。私は娘に、はーい、と返事をしながら校庭の隅っこのプールを見つめる。しんしんと佇むプール。陽光を受け今白く輝く水面。
そうして私は、最後の一口、ハーブティをこくりと飲み、コートを羽織る。じゃ、行って来るね。行ってらっしゃい。またあとでね。うん、あとでね。
息を吸うと鼻の奥がつんとする寒さ。でもそれはとても気持ちよくて。私は走ってバスに飛び乗る。そうして川を渡るとき、私は中ほどで一度立ち止まる。流々と流れる水は、この街中だというのにそれなりに澄んでおり。その時さぁっと陽光が水面に降り注ぎ。水たちは一斉にざわめく。ざわめきながらもなお、流れ続ける。決してひとところに、とどまることは、ない。
ジョシュ・グローバンのCanto Alla Vitaが耳元から流れ出す。


遠藤みちる HOMEMAIL

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