2009年12月19日(土) |
目を覚ますと午前四時半。娘は昨日もまた私に絡み付いて寝入った。おかげで私は、ぐっすり眠ったという気がしない。しないものの、娘はかわいい。そうやって構ってくれとやってくれば、面倒なときもあるけれども、それでも、それもあと僅かの時間と思うと、いとおしさは募る。そうもう僅か。あと数年もすれば、娘はもう私など振り向きもしないだろう。彼女の世界は日毎広がってゆくばかり。 窓を開ける。外はまだまだ闇色に沈んでいる。今朝点いている明かりは八つ。週末ということもあるんだろうか、先日より数が多い。あの窓の中、今誰がどんなふうに過ごしているのだろう。私はひとつひとつ窓を眺めながら思う。 闇の中、ほんのりと浮かび上がる街燈。橙色に少し紺色を足したならあんな色になるのだろうか。いつ見ても不思議な色合いだと思う。夜明けの街燈。車も人も通らないだだっぴろいアスファルトの通りを煌々と照らしている。 何となく甘いものが飲みたくて、ミルクを温め、そこに紅茶葉を入れる。少し煮詰めシナモンを振りいれ、砂糖を一匙入れて出来上がり。 お茶を飲んでいると、がしがしと籠を噛む音がする。あの音はミルクだ。思いながら籠に近づけば、やはりミルクが、がっしと籠にしがみついている。籠を開けるとミルクは上手に自分で籠から出てくる。ココアにはできない芸当。体の大きさのせいなんだろうか。ミルクには籠の入り口の高さは余裕で手が届くらしい。私は頭を数度撫でてやり、娘が起きるまで待っててねと声をかけ、再び籠に彼女を戻す。 コンピューターの調子がおかしくて、なかなか朝の仕事が進まない。結局一時間もして諦めることにする。今日はこのコンピューターは機嫌が悪いんだ。そう思うことにする。音楽をかければ魂の歌が一曲目に流れてくる。その音楽を聴きながら、私は玄関を開ける。アメリカン・ブルーとラヴェンダーが、ぬるみはじめた空をじっと見上げている。私は彼らの脇に座り込み、彼らと同じ高さで空を見上げる。あぁこうしてしゃがみこんで見る空は立って見る空と全然違うのだと、改めて思う。校庭も何もここからは見えない。見えるのはただぽっかりと空いた空だけ。こうやって一日中、アメリカン・ブルーとラヴェンダーは空を見つめているのか。私は横の彼らを改めて見つめる。恋する相手は空か。そんなことを思う。
実践授業の日。しかし朝具合が悪くて飲んだ薬がいけなかった。実践授業だというのに椅子に座っているとこっくりこっくり来てしまう。 他の人のミニカウンセリングを見ていて、気づく。自分を空っぽにして鏡の役目をすることがどれほど難しいかということ。観客役のときでも学ぶことはどれほど多いことか。それぞれたった十分のミニカウンセリング。でも、それは今の私にはまだまだ十分に長い。意識がふらふらする中、それでも順番は回ってくるわけで。でもその時気づいた。集中しよう集中しようと努力を自分に強いるより、ふわりとそこに降り立った方がずっと、気持ちをすかんと抜けさせられるということ。あとはどれだけ耳を傾けられるか心を傾けられるかなのだが、それはやはり、まだまだ難しい。 ひとつの言葉に集中しすぎると、全体を捉えられない。全体を捉えようとしすぎると今度はひとつひとつのキーワードになりそうな言葉をすり抜けさせてしまう。あぁまだまだだな、そう思う。 帰りがけ、次回の授業に繋がりそうな本を二冊見つける。フォーカシングに関する本だ。とりあえず買って読んでみることにする。
ふと、これから先のことが心配になる。今やっている仕事が終わったら、途切れたら、そこから私はどうしようか。いつ途切れてもおかしくはない類の今の仕事。私が死ぬのでもない限り、仕事が途切れても私の時間はそこに在るわけで。さて、どうしたものか。 悩んでも何も始まらないことは分かっている。分かっているが、やはり私の肩に重く、その現実は圧し掛かる。
もし今日クライアント役が回ってきたら。私は何を話したのだろう。何を話せただろう。話せることが今殆どない。私は今、誰かに打ち明けられるような話は、ない。打ち明けたい話も、ない。 唯一浮かんだのは、あの事件のことを手放したいと思っている自分がいるということだった。あの事件のことをもういい加減手放したいと思っている自分がいる。しばらく前からそのことが意識に浮かんできている。 先日仕事の関係で訪れた美術館に、自分がかつて関わっていたあの本が並べられていた。不意打ちだった。いつもなら、自分が普段行く範囲の本屋ならば、その本が並べられている棚は何処かなど、全部覚えてしまっている。だから私は避けて通る。見たくないからだ。見れば複雑な、なんとも言えない気持ちにさせられるからだ。 久しぶりにその本を目の前にし、私は戸惑った。ひどく戸惑った。これを今私に見ろと言うのだろうか。見てどうしろというのだろうか。事件があった場所なのだ。この本を出しているところは。何をどうひっくり返しても、その事実は変わらない。 私に思い出せと言っているのだろうか。でも思い出してそれで何になるのだろう。思い出して、自分をかわいそうだと思えとでも言うのだろうか。冗談じゃない。そんなこと、私はこれっぽっちも望んじゃいない。私はかわいそうなんかじゃない。遭ったことは悲惨だったが、でも、かわいそうなんかじゃない。 なんだかもう、こんなこと、ばかばかしくなってきた。私はこの先もずっと、この本から逃げ続けていくのだろうか。逃げて逃げて、何処まで逃げるつもりなんだろうか。そう思ったら、自分が惨めに思えてきた。何故私はこのたった一冊の本から、逃げ続けなければいけないんだろう。 痛いのだ。まだあの当時のメンバーの何人かが残っている。その編集部に残っている。そのことが痛いのだ。たまらないのだ。何故あなたたちは残っていて、被害を受けた私が辞めなければならなかったのだろう。その思いが今もあるからだ。 だから、見るのが嫌なのだ。今もあの場所に、あのことを知る人間が残っている。そのことがたまらなく、嫌なのだ。 何故。どうして。 その思いが、いまだ私の中から消えないのだ。消えてくれない。 それでも本は目の前にあった。私の思いが消えないのと同じように、本は消えてなくなってなんかくれなかった。何処までもいつまでも、私の目の前に横たわっていた。 本を取り上げてみる。やはり編集長はあの当時のまま。残っている。他のメンバーの名前を確認する勇気はもうなかった。ぱらぱらと頁を捲り、そして私はその本を再び置いた。これ以上見ている必要は私にはない。そう思った。 それでも。私は本当は解放されたいのだ。あの事件からもういい加減、解放されたいのだ。解き放たれて自由になりたい。でも、まるで刺青のようにその痕は私の身体に残っており。私の記憶に刻印されており。 あの日のことを思い出すと今でも体が震える。一体何が自分に起こったのか、今でもよく分からない。分からないけれど、起きたことは事実なのだ。事実を曲げようは、ない。 ――でも。 そんなことをここで話してどうする? 体験をしたことのない人にとって、想像もしたことのなに人にとって、こんな話、重いだけだ。そして下手をすれば、話をしたことによって私は偏見を持たれる。それはさらに私を苦しめる。 結局、幸か不幸か、クライアント役は私には回ってこなかった。おかげで何を話すこともなくその場を過ごすことができた。私は心底ほっとしていた。誰にも聴こえないよう、心の中、よかった、と呟いたことを、今も覚えている。
深く深く、芯まで突き刺さったこの刃を、抜き去る術が、まだ私には、ない。
本当にこの勉強を始めてよかったのかしらぁん、と思わず声を上げてしまったところで、娘が起きた。何のこと? ん、勉強のこと。どうしてそんなこと思うの? んー、ママは自分の疵を直視できるのかなぁと思って。どういう疵? 言われて私は言葉に詰まる。まだ話すのには早い。いつかまた聴かれるときが来たら、その時話すかもしれないが、今はまだ、早い。私は黙り込む。 こんなキズ! と声を上げて彼女に飛び掛る。わぁ、何すんのよぉ! 娘が声を上げる。なかなか起きない罰だよぉ、私はそう言って、彼女をくすぐる。熱いといってもいいくらいあたたかい彼女の体が、私の体の下、ひゃっひゃっと声を上げながら転がる。さぁ起きて。準備して! ひとしきりくすぐり終えた後、私は彼女に声をかける。 じじばばがね、朝ごはん、いい加減過ぎるんじゃないのって言ってたよ。ん? そう? うん。サラダも何も食べないの?って。んー、じゃぁサラダ作ろうか? 食べられる? 朝からそんなに食べたくない。スープあるよ、食べる? いつものおにぎりで十分だよ。そう言って娘はおにぎりにかぶりつく。確かにじじばばの細やかな食卓に比べたら、うちの朝食はいい加減の極みなんだろう。よく自覚しています、じじばばよ。でもまぁ、当分これがうちの朝食です。赦してください。
バスに乗り駅へ。そして私たちは別れる。じゃぁね、日曜日にまたね。手を振り合って別れる。私は左へ、娘は右へ。それぞれの方向へ。 空は今、すこんと抜けている。実に穏やかな空色を広げ、そこに在る。花屋は十時開店にも関わらず、もうこの時間から準備を始めている。冬の花屋には薔薇が多い。何種類もの薔薇が新聞紙に包まれて、置いてある。それを店員がひとつひとつ解いてゆく。私はその脇をそっとすり抜ける。 一日はもう、始まっている。 |
|