2009年12月30日(水) |
体の微妙な痛みで目が覚める。体自体は、まだ起きたくない、そんなふうに言っている感じがするが、習慣とは怖いもので、起き上がらないと気が済まない。でもその前に、半身だけ起こして少しだけ目を閉じて、体の声に耳を傾けてみる。だるい。何処が? 背中が。あと目も重だるい。首の周りがひどく凝っていて、肩甲骨の上あたりがぱきぱきと痛む。私は痛んだりだるかったりする場所を心の中で撫でてみる。そうして納得する。このところずっと走りっぱなしだった。身体を労わってやる隙間などなかった。だから悲鳴を上げているのだ。私はだから心の中でもう一度彼らを撫でてやる。大丈夫、私はここに在る。あなたたちがそこに在ることをちゃんと知っている。 そうして私は起き上がり、お茶の支度をする。お湯を沸かしている間に足元を見れば、巣から早速出てきたミルクががしがしと籠を噛んでいる。おはよう、ミルク。籠から出して抱き上げてやると、ひっきりなしに私の掌の上動き回る。そして私のシャツをがしがしと噛む。 紅茶のカップに柚子紅茶の葉を入れ、お湯を注ぐ。香りなど一切分からなくなった時期があった。あの頃に比べたら私の嗅覚はだいぶ戻ってきた。でも、残念ながら入れた瞬間の香り以上には、私の鼻は香りを感じてはくれなかった。少し悲しくなる。が、そんなことを思ってみても仕方がない。いつかまたちゃんと香りが分かる日が来ることを信じてみるだけだ。紅茶は明るい色味で透明なカップの中広がっている。私はそれを、一口一口、ゆっくりと啜る。
国立の書簡集でひとときを過ごす。午前中ずっと空を覆っていた雲たちも、やがて散ってゆき、私が窓際の席に座っていると、窓から燦々と陽光が降り注ぐ。その陽光にあたためられて、私は時間を過ごす。 友人が娘さんと会場にやって来てくれた。この写真が一番好き! 娘さんがその写真を指さす。モノクロの写真たち。私のこれまで作ってきた写真の中では、多分この写真たちは白でも黒でもなくグレーで。振れ幅が少ない色調なのだと思う。無邪気に写真を見つめてくれている娘さんに、この写真の成り立ちを話す。それに合わせるように、友人が、私も性犯罪被害者なんだよ、と、娘さんに告白する。驚いた娘さんが、え、え、と声を上げている。私はその様子をただ見守る。 いつか娘が大きくなって、そういう機会があったらカミングアウトしようかなとは以前から友人が言っていた。それが、この場所で、今このときであったことに、私はある種の責任を感じる。責任、という言葉が合っているのかどうか、正直よく分からない。でも、それに似た何かを、感じる。この写真たち、この場がなかったら、彼女は今ここでカミングアウトすることはなかったのだろう。それを思うと、私の中に様々な思いがよぎる。この写真を生み出すにあたって名乗り出てくれた友人たち、そして実際に撮る撮られるという行為、その後には文字に記すという行為があった。彼女らにとってそれは、どれほどしんどい作業だったろう。それでもそれに付き合ってくれた。寄り添ってくれた。だからこそ今ここにこの写真たちは在る。そして、彼女たちのそんな姿があったからこそ、今友人は、ここでカミングアウトしている。
日が堕ち始める。丸く丸く、燃える太陽が、西の空、徐々に徐々に、そして最後はすとん、と、地平線に堕ちてゆく。私はそれを、じっと心で見つめている。
普段寮にいる娘さんは、ひっきりなしに言葉を繋げていた。いくら言葉を繋げてみても自分の気持ちを言い表すには足りないといったふうに、次から次に、ただひたすらに、言葉を繋げていた。紡ぐ、のではない、まさに繋いでいた。溢れ出てくる彼女の思いが、私たちの周りで、まるでシャボン玉のように次々生まれては弾けていった。 友人はそんな娘さんを、時に見つめ、時に流し、淡々とそこに居た。時折彼女の顔に疲れが見え隠れするのが私は気にかかり。多分、このテンポに、彼女は少し疲れているのだろうと思った。それでも、彼女の、娘さんを見つめる柔らかな目は、最後まで変わらなかった。私はそんな彼女を見つめていた。
私は娘に夜電話をかける。娘はちょうど横になったところであるらしく、でも、電話だとじじばばが告げると起きてきて、私に言う。久しぶりに家に帰れるね! うん、そうだね。でも大掃除だよ。うん、分かってるよ。さっさと終わらせちゃおうね! うん、そうだね。そして、じじばばに聴こえないように、小さな声で彼女が囁く。早く生ハムたちに会いたいよ。うんうん、そうだね。ミルクもココアもゴロも、みんな帰りを待ってるよ。
朝、友人から連絡が入る。年賀状を書いているところだという。来年結婚十周年を迎える彼女たち夫婦。その道程というのはどんなものだったのだろう。短い結婚生活しか送っていない私には計り知れない。 私は朝の仕事を切り上げてベランダに出る。ホワイトクリスマスの蕾は、太りに太っているものの、まだ割れる兆しを見せない。どこまで膨らむつもりなんだろう。もうまん丸に太っている。その隣のベビーロマンティカの蕾たちは、ようやく色を見せ始めた。濃いレンガ色のその色。三つ。ホワイトクリスマスと並んで咲いたら、それはもう美しいコントラストを描くのだろう。 プランターがみな乾いている。そろそろ水を遣ってもいいかもしれない。今日帰ってきたら水を遣ろう。そう決めて、私は玄関を出る。出る時も、ミルクががしがしと籠を噛んでいる。ごめん、帰ってきたらまた出してあげるからね、私は声を掛ける。 学校の樹木は大きく枝を掃われ。その様子は校庭が一回り大きくなったんじゃないかというほどの空間を作っており。その隅っこで、プールがしんしんと水を湛えている。その水は、東から伸びる陽光を受け、きらきらと輝きを放つ。 自転車に跨り、まずは近くの公園まで。公園の木々はみなもうすっかり裸になり、あたりは沈黙に包まれている。その木々と空とを、池一面に張った薄い氷が映し出す。脈々と伸びる枝、雲の少ない輝く空、あたりを渡ってゆく風、すべてがしんと静まり。氷の上の画は、まさに静止して、そこにただ在る。私はベンチに座り、それをじっと見つめる。そうして振り返れば遊具の集まる方にひとつだけ、時を刻み続け動き続ける時計。今このときもそれは、時を刻み続けている。 広い横断歩道を二つ渡り、高架を潜り抜ければ、裸の銀杏並木。まだその足元には落ち葉が残っており。すっかり色褪せた落ち葉たちは、じっと、樹の足元を守りあたためている。そうして美術館の脇にはモミジフウが待っており。枝々に残る実は空の明るさを受けて影絵のよう、ぽつりぽつりと浮かんでいる。 海に出ると今まさに陽光が海に乱反射しているところで。だから海はまるで鏡のようにそこに在り。私はあまりの眩しさに思わず目を閉じる。そして耳を澄ませば、波の描く繰り返される模様が木霊する。 一人の老人がベンチに座り、鳩に餌をやっている。鳩たちは待っていましたとの如く、次々群がって来、餌を奪い合う。 私はもう少し走ることにする。海と川を繋ぐ場所から川を遡る。少しゆくと、鴎の集まる場所に辿り着く。風がやってくる方向を向きながら、じっと立つその姿は、彫像のように美しく。 街がやがて動き出す。今橋を渡る人と車とに、鴎が一斉に飛び立った。 |
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