2010年01月30日(土) |
午前五時。腰を庇いながら起き上がる。鈍い痛みが右側に走る。ここ数日この場所が痛む。姿勢でも悪いんだろうか。起きて早々、腰にサポーターを巻いてみる。 ゴロが砂風呂の中でじっと目を閉じている。私はコンコンと指先で扉を叩いてみる。一向に目を開ける気配は無い。眠っているんだろうか。こんもりと丸くなって目を閉じている姿はまさに毛玉のようで。こんもりとした毛玉。私はそっとしておくことにする。 お湯を沸かしお茶を入れる。友人のくれたハーブティがなんとも私の口にあっており、今朝もそのハーブティを選ぶ。じっくり茶葉を開かせ、お湯からそっと上げる瞬間、草の香りがふわんと広がる。匂いに鈍い私が分かるほどなのだから、きっと今部屋の辺りがこの草の匂いに包まれているんだろうなと想像する。乾いた草原の匂い。いい香り。 ママが起きる時間に私も起こして。昨日娘がそう云っていた。私は一応声を掛ける。びくともしない。もう一度。やっぱり反応は無い。もうしばらく寝かせておこうか。私は三十分後にアラームをセットし、身支度を整える。 窓を開け、空を見つめる。闇はまだみっちりと詰まっており。でもこの冷気が闇を凛とさせている。目を閉じて耳を澄ますと、風の音が聴こえる。ひょう、ひょひょう、と街を渡ってゆく風。なんとなく、今日はいい日になる。そんな気がする。 髪を梳き終え、もう一度娘に声を掛ける。もぞもぞっと布団が動く気配。ママ、ミルク連れてきて。おもむろに娘がのたまう。仕方なく私がミルクを娘の横に連れて行くと、ミルク相手に布団の中、おしゃべりをしている。サンドウィッチ食べる? 私が声を掛けると、うん、そうする、と返事が返ってくる。私は先日作っておいたサンドウィッチを、皿に切り分ける。 二杯目のお茶を入れながら、私は今日持って出るものを鞄に詰め込む。今日は一日展覧会会場に詰める予定。これまで売れた分のポストカードの補充を今日持っていかなければならない。これを忘れたらパートナーに迷惑がかかる。絶対忘れるわけにはいかない。 あっという間に朝の仕事の時間へ。
授業の日。共依存症についての講義だ。共依存については自分なりに調べたことがあったのだが、授業はそこからはるかに広がりを見せ、私はその内容にぐいぐい引き込まれてゆく。依存症者と共依存症者との関係、嗜癖と過程嗜癖と。共依存症者のもつ障害と。進めば進むほど引き込まれ、しかしいっぺんには頭に詰め込めない状態に陥った。ノートをとるのが精一杯だった。 ひとつ、過程嗜癖の先に、講師が矢印をつけ更なる深刻な病状を記す。それが目に留まり、私は手が止まる。そこをさらに越えたら。そう考えると胸が痛くなった。今は考えるのはよそう。意識がそう云った。考えると涙が出てきそうだった。 来週は共依存からの回復を学ぶ予定だ。そこで分かち合いも行われるという。分かち合い。一体何をどう分かち合うんだろう。
授業の後少し休んで、帰宅。今催している二人展で販売しているポストカードの補充をしなければならない。プリンターをフル稼働させる。かたかたかたかた、かたかたかたかた。ひっきりなしにプリンターの音が部屋に響く。プリンターを載せている手作りの棚も一緒にかたかた揺れる。私はその揺れをぼんやり眺めながら、お茶を飲む。 人権会議なるものに出ていたのだと娘が三時半を過ぎてようやく帰ってくる。四回も発言したんだよ、と自慢げに鼻を上に向けている娘。人権会議とは一体どんな会議なんだろう。私が小学校の頃にはそんなものは存在しなかった。月曜日にはその会議結果を放送で流すのだという。人権会議。そういうものが必要な時代なのか、とふと思う。不思議な時代になったものだ。 ねぇママ、鉛筆が欲しいんだけど。鉛筆? うん。もうなくなっちゃったの? いや、まだあるんだけど、もう半分は使ったから。うーん。何本要るの? 五本か六本。じゃぁ学校の勉強の復習だけ終えたら、駅前の文具店まで出ようか。うん! こうなると取り掛かるのが早い娘は、早々に理科の教科書を机に広げ、なにやらぶつぶつ呟いている。暗記しているらしい。ちらりと教科書を見ると、ちょうど星座のところ。あちゃ、下手に声をかけないほうがいいなと私は用心する。私は星座などの課題が苦手だった。星座にまつわる物語を調べるとか、そういったことは大好きだったのだが、どの季節にどの星座が見えるなどは、本当に大まかなことしか覚えていない。私は声を掛ける代わりに買っておいたお煎餅をひとつ、娘の手元に差し出す。娘は無言のまま、ぱくりとそれを食べる。 その間もプリンターはかたかたかたかた。小さな音を立てて動き続けている。
日ももうすぐ堕ちるという頃、ようやく私たちは自転車に跨る。坂を下り、角を曲がり、大通りを横切り。十分ほど全速力で走れば駅前へ。 郵便局に寄ってから文具店へ。鉛筆のコーナーに来たものの、娘が渋い顔をしている。どうしたの、と声をかけると、うーんと唸っている。私はもう一度声をかける。どうしたの? あのさ、絵の鉛筆、ないのかな? 絵の鉛筆? 模様のついた鉛筆。あぁ、そういうことか。うーん、ここにはないみたいだよ。…。どうする? 今日は買うのやめておく? …いいよ、ここで買う。 鉛筆といえば、無地の鉛筆。昔ながらの無地の鉛筆。私はそう思い込んでいた。しかし。娘にとっての鉛筆は、絵柄のいっぱい描かれた、賑やかな鉛筆だったのだ。せっかく買ったものの、なんとなくすっきりしない。今度鉛筆を買うときは、別の文具店へ行こう。私は心に決める。どうせする買い物なら、娘の喜ぶ顔が見えた方がいい。 帰り、地下街の隅にあるアイスクリーム屋で、小さいカップをひとつずつ注文。娘はカシスのシャーベット。私はシナモンのアイスクリーム。久しぶりに食べるその味に、私たちはようやくにっこりする。
駅をこちら側から向こう側に歩くときに気づいた。娘が私を大きく庇って歩くこと。私の背中に左手を当て、右手で人波を避ける。その日私があまり具合がよくなかったから、といえばそうなのかもしれないが、娘のこの気遣いに、私は思わず赤面してしまった。そんなに庇ってくれなくても大丈夫だよと心の中思ったのだが、しかし、ここまで庇ってくれようとしている娘の厚意を無駄にするのは、もっとしてはいけない気がして。私は彼女がしてくれるままに任せる。なんだか、どちらが親なんだか分からない、つくづくそう思う。君はまったく不思議な娘だね、私は彼女に聴こえないようにそっと呟く。
ようやくプリンターが一仕事終え、棚の揺れも終わり、私は横になる。久しぶりに一緒に横になったせいなのか、娘がどーんとその足を私の体に乗せてくる。ねぇねぇ、くすぐりしてよぉ。えー、今日疲れてるから勘弁。えーーー、やだよぉ、くすぐりしてよぉ。だからぁ、今日は勘弁してよぉ、今度するからさ。やだやだ、構ってよぉ。 あまりの駄々っ子ぶりに私は笑い出してしまう。おいおい、何年生だよと思うのだが口には出さない。私は寝たふりをして布団を被る。しかし娘はめげない。私の頬にキスをしたり、それでも動かないとミルクを私のおでこに乗っけてきたり。何とかして私を動かしたいらしい。根負けした私は、くそっと言いながら娘の脇腹をくすぐる。ひゃーと云いながら笑い出す娘。これでもか、これでもか、と私はくすぐりを続ける。気づいたときには布団がぐちゃぐちゃになっており。私たちは、布団を整え直し、ようやく床へ。 灯りを消した部屋の中、ミルクのがららっという回し車の音が響いている。
じゃぁね、じゃ、日曜日ね。娘と手を振り合って別れる駅の改札。娘は左へ、私は右へ。電車に乗ろうとしたところで娘からのメール。私は早速返事を返す。日曜日までのしばしの別れ。その間に私は私でやれることをやろう。娘だっていっぱいいっぱい頑張っている。 電車に乗り、ことこと揺られ、川を渡る。川岸にたくさんの鳥が集っているのが見える。伸びてくる陽光が目に眩しい。 そうして今日もまた、一日が始まってゆく。 |
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