2010年02月07日(日) |
ふと足元を見ると、ゴロが立ち上がってこちらを見上げている。おはようゴロ。私は声を掛けながらしゃがみ込む。手を差し出すと、程なく彼女が乗ってくる。私は背中を撫でてやる。多分昨日娘がいなかったから、スキンシップが足りないんだろう。ここで昔一緒に暮らしていた猫ならば、ごろごろと喉を鳴らすんだろうが、ハムスターはそういうこともない。ただ黙って撫でられている。ひたすらじっとしているゴロ。私は彼女を手に乗せたまま、残った右手でお湯を沸かしにかかる。 紅茶葉にお湯を注いで、しばらく待つ間に窓を開ける。しんと止まった空気は冷えてはいるが、そう、風が吹いていないせいなんだろう、そこまでの寒さは感じられない。今朝は土の在る場所などは霜が降りているかもしれない。そんな気がする。私の住むこの場所はアスファルトにほとんど覆われ、土が見えないけれども。土があって霜が降りていたら、それを踏んで、さっくさっくと鳴る音を楽しめるのに。少し残念。 ゴロを籠に戻し、コーディアルのエキスを垂らしたカップを持って椅子に座る。背中が微妙に凝っている。肩をぐるぐる回しながら、私はPCのスイッチを入れる。
知人の知人、という方が展覧会にいらしてくださる。カラー写真をやっていたのだという。でも仕事でやるのとプライベートでやるのとの両立ができず、今充電している最中なのだとか。お話を続けてうかがっていると、彼女も被害者の一人であることが伝わってくる。私にとっては特別なことではないが、告白する側にとってはそれはいつだって躊躇われることなのだ。彼女の声が小さくなってゆく。私はただ、彼女のその声に耳を傾ける。 それからまた写真やらなにやら話は広がり、彼女が笑いながら、こういう話がしたかったのだと照れくさそうに話してくれる。こんな話でよかったらまたいつでも。そう言葉を交し合って別れる。 そう、彼女のように、病院に行くことさえ躊躇われることが、時折あるのだ。自分なんかが病院に行ってもいいのだろうか、自分より大変な人がいるんじゃないか、と。 でもそんなことをはかることができる物差しなど、何処にも、本当は、ないのだ。 今彼女は再び病院に通院し始めているのだという。それがいい方向に向かうといい。私は祈るように思う。
実家に電話を掛け、娘と話す。体調はどう? 大丈夫? そう尋ねると、もう、忘れてたのに、なんでそういうこと訊くかなぁ、と、彼女は笑って応える。あら、そうなの、じゃぁもう訊かない。私がそう言うと、彼女がさらに笑う。おやつも食べないで今勉強頑張ってたの。そうなの? おやつぐらい食べなさいよ。うん、食べるけどさ、もうちょっとやったらね。そう、分かった。 そして電話は母に代わり。軽く話して電話を切る。とりあえず娘は今のところ大丈夫なようだ。それが分かって私はぐんと肩の荷が軽くなるのを感じる。あの彼女の泣き顔がまだ頭から離れない。 友人が私に言う。彼女は、私と遊んでいる最中も、しょっちゅうあなたのこと目で追いかけてるよ。きっとね、多分ね、彼女は、お母さんがいなくなっちゃうってことがとてもとても怖いんだと思うよ。言われて気づく、そうかもしれない、と。 これって私がかつてやっていた盛大なリストカットなどの影響なんだろうか。私がぽつり言うと、友人が応える。それは分からないけれども。彼女がそれを覚えているかは定かではないけれども。でも、お母さんがこの世界からいなくなっちゃうことにとてつもない恐怖を感じてる、そんな気がする。 私は思う。私を置いていくのは逆に、あなたの方だろうに。私を置いていかなくちゃならないのはあなたの方だろうに。私があなたを置いていなくなるなんてこと、どうあってもありえないことなのに。それでも不安かい。それでも怖いかい。 でも多分それは、理屈なんかじゃないんだろう。言葉でどう償ったって、解消されるものじゃぁないんだろう。私が生きて、そう示すしかない。 店の外に出ると、空気はきんきんと音が鳴りそうなほど冷たく。闇は何処までも深く深く、沈んでいる。
今日は二人展最終日。ようやく最終日がやって来た。朝の仕事が終わったと思ったところに、パートナーから電話がかかってくる。今日の予定の調整だ。待ち合わせの場所と時間を決めて電話を切る。 さぁ心はもう、次へ向かっている。三月に今年の、あの場所からの撮影、六月に個展、とりあえずそれへ向けて動きだす時期。 がらんと空いたバスに乗り、駅へ。ちょうど電車は出たばかりで、ホームで十五分近く待つ。陽射しがあるからいいものの、これがなかったら。寒くて指がかじかんで、たまらない思いをしただろう。 陽光降り注ぐ車内で、瞼が重くなるのを感じる。このところ睡眠時間がいつもよりずっと短かった。その疲れが体にどっぷり溜まっている。展覧会が終わったらまずこの疲れを拭わないといけないかもしれない。 「死ぬことは愛することである。愛の美しさは過去の思い出や、明日のイメージの中にはない。愛は過去も未来ももたない。それをもつのは記憶であり、それは愛ではない。情熱をもつ愛は、あなたがその一部である社会の枠を超えている。死になさい。そうすればそれはそこにあるだろう。」「静寂の中から、見て、聴きなさい。」「静寂の中から、見、話なさい。真の無名性はこの静寂からやってくるもので、そこには他の謙虚さは存在しない。」「無垢だけが情熱的でありうる。無垢な人は悲しみを、苦しみをもたない。彼らが無数の経験をもつとしても。精神を腐敗させるのは経験ではない。それらが背後に残すもの、その残留物であり、傷であり、記憶である。これらは蓄積し、他の物の上にさらにあるものを積み上げ、そしてそこに悲しみが始まるのである。この悲しみは時間である。時間があるところ、無垢はない。パッションは悲しみからは生まれない。悲しみは経験、日々の経験、苦悩と流れ去る快楽、恐怖、確信である。あなたは経験から逃れることはできないが、経験が精神の土壌に根付く必要はない。これらの根が問題を、葛藤、絶え間ない苦闘をひきおこすのである。ここから逃れるすべはない。日々、つねに昨日に向かって死ぬ他には。明晰な精神だけが情熱的でありうる。情熱なくしては、あなたは木々の葉のそよぎや、水に照り映える陽光を見ることはできない。情熱がなければ愛はない。見ることは行なうことである。見ることと行なうことの間にある間隔はエネルギーの浪費である。」 読み途中の本に、線を引きながらすごしていると、あっという間に乗り換え駅に到着する。私は慌てて電車から降り、階段を上がる。休日のせいだろう、平日ならこれでもかというほど混み合うホームも、今日は閑散としている。 さぁ、最終日、もう泣いても笑ってもこれで終わり。私は空を見上げる。雲が一筋浮かんだ明るい水色の空が、そこには在った。 さぁまた今日も、一日が始まる。 |
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