2010年02月08日(月) |
プリンターの音を聴きながら横になっている。かたかたかたかた。音は一晩中続いている。途中インクを交換したり、紙を足したりしながら、私はじっと過ごしている。展覧会も昨日で終了した。そのお礼状のプリントだ。これを投函し終えなければ、展覧会は本当の意味では終わらない。 お湯を沸かしている間に顔を洗う。何となく疲れた顔をしているなぁと我ながら思う。仕方ない、あまり眠っていない日が続いているのだから、こんな顔にもなるだろう。私は一度洗い終えた顔を、さらに冷水でばしゃばしゃ叩く。 今朝は久しぶりに、友人がくれたハーブティを入れてみる。草の香りがふんわりと私を包み込む。干草の匂いはもしかしたらこんな匂いなんじゃないだろうか、私は想像する。 窓を開ければ、昨日よりずっとぬるい空気。闇がとろんと横たわっている。今朝点っている灯りは四つ。ちょうど菱形を描くように点々とそこに在る。窓の向こうでは今どんな物語が語られているのだろう。地平の辺りに漂う雲は、微かに東へ流れてゆく。もしかしたら今朝はきれいな朝焼けが見られるかもしれない。 部屋に戻り、金魚の様子を確かめてから足元の籠を見ると、ココアが小屋から出てきてうろうろしている。おはようココア。私は声を掛ける。ココアは一瞬首を傾げてから、こちらを見上げる。時々私は、ココアは目が見えていないんじゃなかろうかと思うことがある。目に映るものよりも、彼女は気配により強く反応する。鼻をひくひくさせるときも、目はどこか他のところを向いている。一心に対象を見つめるミルクとは、そこが大きく違う。 しばしココアと遊んでいると、プリンターが紙切れのサインを点滅させている。私は急いで紙を補充する。あとどのくらいで終わるだろう。私は時計を見る。午前五時半。まだしばらく、かかるかもしれない。
展示を終えて、次の展示について考える。次の展示は「祈々花々」にしようと思っていたが、それを秋に延期し、別のものをやろうか、という考え。「祈々花々」は、ここの空間で、六月という季節にやるには重いかもしれない、そんなことを感じる。
久しぶりに父のがなる声を聴く。これもまた、仕方ない。いくら熱が下がったとはいえ、体調が万全ではない一人娘を置いて展覧会会場に向かっている私なのだから。黙ってその声を聴く。しかし。どうしてこの人はこうも、人を傷つける術を知っているのだろう、つくづく感心してしまう。 娘は娘で、私が早く帰るよと言うと怒り出す。どうしてそんなこと言うの、私一人でできるんだから帰ってこなくていい! これはこれで胸に痛い。 結局、私はパートナーに後を託し、夕方会場を引き上げる。それはそれでまた胸が痛い。結局何もかも中途半端。そんな自分が一番嫌だ。
プリンターはまだかたかたかたかた音を立てている。私は時折覗き込み、プリントに間違いがないことを確かめる。ハーブティは飲み終えてしまった。さて次は何にしよう。お湯を沸かし直し、今度はレモングラスとペパーミントのハーブティを入れることにする。
朝の仕事をしながら、もう半月後に迫った娘の誕生日について考える。母は、本当はミシンを贈りたかったらしい。それを、娘の注文で洋服になったのだという。娘は私にも、洋服でいいよ、と言っていた。洋服「で」というところが何ともいえない。本当は何がいいんだろう。考えてしまう。 五年生から使うアウト・リコーダーも、私のお古があったため、それを充てることにした。結局彼女の周辺は、お古ばかりで埋まっている。 唯一、彼女がぽろりとこぼした言葉は、机、だった。机、あるじゃない。私がそう言うと、この机はひどく使い辛いし、本を置く場所が少なすぎるのだという。今考えているのは、彼女の机の隣のスペース、今私が古いPCなどを置いているスペースを整理し、そこに本棚を置くという案だ。本棚といっても、要するに、安いカラーボックスになってしまうのだろうが、ないよりはある方がいいだろう。 じゃぁ今置いてあるものたちはどう片付けるか。それを先に考えなければならない。私は頭を抱えてしまう。
それにしても、ちょっと疲れた。休みが欲しい。ただぼぉっと何もせず、自分の居心地のいい場所で時間を過ごす、そんな日が欲しい。
夜、友人からメッセージが入る。展覧会お疲れ様。そうメッセージが入る。今回展示を見て、生の写真と機械でプリントアウトした写真とがずいぶん違うことを知ったよ、と。 私は煙草を吐き出しながら、思う。生の写真の、そのプリントの味を、一体いつまで味わっていられるのだろう。印画紙も現像液も、ずいぶんなくなってきた。フィルムの種類も本当に限られてきた。私は、写真を始めた当初から、同じフィルムしか使っていない。他のフィルムを使うことはもはや考えられない。このフィルムがなくなったら、私はデジタルに移行するしかないと思っている。でも。 この焼く楽しみがなくなったら。 それはどれほどのものを私から奪うだろう。それを考えると、少し恐ろしい気がする。ネガは楽譜、プリントは演奏。その言葉が私の中、りんりんと響き渡る。私にとってプリントは、とてもとても重要なのだ。それがなくなってしまうなんて―――考えられない。
今日は病院。正直少し憂鬱だ。行きたくない。体がそう言っている。できることなら行きたくない。でも、一度行かなくなったら、私は再び行くことができなくなる、そんな気がする。だから、行く。まだ私には、必要な場所だから。 バスに乗ろうと通りを渡ると、ちょうど太陽が建物の間からのぼってきたところで。陽光は四方へ広がってゆく。あたり一面、陽光の海だ。 電車に乗り換え、がたごと揺られ、川を渡るとき、ちょうど逆向きの電車とすれ違う。すれ違う窓の向こうに川が広がっている。一面きらきらと輝く川が。今それをしかと見ることができないそのことが、ひどくもったいない気がして、私は唇を軽く、噛む。 最寄の駅に降り立ち、私は空を見上げる。水彩絵の具の青と白を混ぜて、おおめの水で溶いて広げたなら、こんな色になるんじゃなかろうか。澄んだ水色が何処までも何処までも広がる空。 さぁ、うだうだしてはいられない。もう一日は始まっている。私は、階段を一段抜かしで駆け下り、病院へ向かう。 |
|