見つめる日々

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2010年02月09日(火) 
習慣とは怖いものだ。今朝の仕事は夜にと予定を組み直したというのに、起き上がるとそそくさと支度を始める自分。顔を洗っているところでようやく、あぁ今朝はゆっくりしていてよかったんだと気がつく。でももう遅い。一度起き上がったら再び横になるのは私にはできない。諦めて、あれやこれや始めてみることにする。
まず、パンが焼けているかどうかの確認。友人にお礼をしなくては、と考え、結局レーズンパンを作ることにした。最高の出来、というわけではないが、でも一度目と二度目では、二度目の方がずっと形が整っているように見える。よって二度目に焼いたパンを包むことにする。
包んでいると、足元でかたりと音がする。見てみると、ゴロがこちらを見上げて鼻をひくつかせているところ。おはようゴロ。私は声を掛ける。毎日毎日同じ言葉を同じように声を掛ける。この癖は、高校の恩師から受け継いだものだ。先生が言ったのだ。必ずおはようと生徒に声を掛ける。毎日毎日同じ言葉できるだけ同じトーンで。相手も返事を返してくる。その時の声の調子で、そいつの調子がだいたい分かる。至極単純なことなのだが、本当にそうだと思う。実際、娘やゴロたちに毎日こうして同じ言葉をできるだけ同じ調子で掛けるのだが、彼女たちの反応はさまざまだ。或る日は元気良くおはようと返ってきたかと思うと、或る日はおはようございます、と、ぼそっと返ってきたりする。その微妙な変化は、私が彼女たちの調子を慮る尺度になる。
ゴロを肩に乗せ、私は沸かしたお湯でお茶を入れる。今朝はレモングラスとペパーミントのハーブティーを一番に入れてみる。お茶に口をつけながら、次の作業。四つに分けた花瓶の全部の水替え。元気がまだまだあってくれるのか、水のなくなり方が結構早い。まだまだ咲けよ、きれいに咲けよ、そう声を掛けながら私は水を替えてゆく。
窓を開けると、ぷわんとぬるい空気。一体どうしたんだ、先日までの寒さは一体何処へ行ってしまったんだ、そう思うほどにぬるい。これは一雨来るんじゃないか、そう思える。ぬるい風がびゅうびゅう吹いている。街路樹の間を音を立てて過ぎてゆく。そんな今朝、点っている灯りは五つ。闇の中のカンテラのように、その灯りは目印になる。
朝の仕事の時間に今日は何をしよう。考えて、六月の個展の案を練ることにする。内容を大きく変更しようと決めてから、頭にぐいぐい浮かんでくるものがある。そういう展示の仕方をあまりあの場所で見たことはないが、在っても悪くはないだろう。そう思いついて以来、もくもくと浮かんでくる案。あとは作品選びだ。今のところ揃っているものを、それぞれ分けてゆく。
そうしているうちにあっという間に午前六時。娘を起こしにかからなければ。私は肩に乗っているゴロを、娘の肩のあたりにそっと乗せ、声を掛ける。おはよう、時間だよ。ゴロの気配にはっとしたらしい、娘はぱっちりと目を開ける。

病院の日。ほぼ一ヶ月ぶりになるカウンセリングだ。しかし、私は正直疲れ果てていた。できるならそのまま横になっていたい気分だった。診察室に入り、椅子に座ったものの、一言も言葉が出てこない。そのくらい、私は疲れていた。
久しぶりのカウンセリングになりますが、何か変わったことはありませんでしたか。カウンセラーのその言葉にも、反応できない。すみません、疲れ果てていて、言葉が浮かびません。そう応えるのが精一杯。
カウンセラーがその後もいろいろ言葉を継いでくるのだが、私はほとんど反応できないまま。この喉元まで出かかった、すみません、今日はもう、何も話せませんという言葉。しかしそんな意志表示さえ、結局できぬまま、部屋を出る。
一体何しにここまで来たのだろう。我ながら思う。つくづく思う。しかしもう過ぎたこと。病院を出ると真っ青な空が広がっていた。目に沁みる青。

帰りがけ、レーズンとドライイーストを買って帰る。今日はパン作りをしよう、そう決めていた。小麦粉やバターは家にもうすでに用意してある。具を何にするか、最後まで迷っていた。友人がもしかしたらレーズンが好きかもしれない、そう思いついて、ドライフルーツの中からレーズンを選んだ。しかし帰りのバスの中で思い出す、娘はレーズンが嫌いだったこと。まぁ仕方がない。娘には我慢していただこう。
パン作りは待つ作業だと思う。あちこちで、たっぷりの時間を待って過ごさなければ出来上がらない。窓の外、燦々と降り注ぐ陽光。私はたまらなくなって窓を半分開ける。ベランダでは今、薔薇の新芽たちがこぞって顔を見せ始めている。まだ病気の片鱗を残しているものもいるから、油断はならない。でも、その中で、ミミエデンがちょっとずつ新芽を出してきてくれていることが、何よりも嬉しい。もうだめになってしまったかと思っていた。でも彼女は再びこうして芽を出してきてくれている。ここからだ、ここから花をつけるまで、私はしっかり見通してやらなければならない。そう思う。
生地にレーズンを練り込ませ、再び捏ね捏ね。砂糖は黒砂糖を使った。寝かせて、また捏ねて、捏ねて、また寝かせて。繰り返しの作業。その間に日は少しずつ西に傾いてゆく。

娘を歯医者に連れてゆく。健診だ。今のところ虫歯らしい虫歯はないものの、娘の歯は人とちょっと形が違っているらしい。窪み方が深いのだと言う。だから虫歯になりやすいのだと先生が説明してくれる。特に前歯の裏の窪み方はひどい。このままだと虫歯になってしまいますねぇ、どうしましょうか、窪みを埋めておきましょうか。はぁ、その方が虫歯にはなりにくいんですか? というより、ここ、もうちょっとすると虫歯になってしまいそうな気配がありますよ。そうですか、じゃぁ埋めておいてください。
二週間後に予約を取り、家に戻ると、ちょうどパンが焼けた頃。いい匂いが部屋に漂っている。パン、焼けたよ。何パン? ん? まぁ焼きたてだからさ、食べてごらんよ。えー、レーズン? まぁそうなんだけど。レーズンいらない。じゃぁレーズンがないところを選んで切ってあげるから、レーズンはママがもらってもいいし。じゃぁ食べる。味、どうよ? まぁまぁじゃない? 私は苦笑する。娘はまぁまぁじゃないと言いながら、むしゃむしゃ食べている。
やがて日は西の地平線にぴったりとくっつき。そしてあっという間に堕ちてゆく。日没だ。

郵便受を見ると、一通の葉書が届いている。先日展覧会にいらしてくださった方からだった。丁寧な毛筆の文字が連なっている。娘宛にも数行。娘に向かって、声を出して読んでやると、娘はちょっと照れくさそうな顔をする。私はその葉書を、箱の中にそっとしまう。また季節がきたら手紙を書こう。そう心に決めて。

ママ、バス、ちょうど行っちゃったよ。あ、次のバスにするよ。私はゴミをまとめながら返事をする。今日はゴミの日。土曜日に出すのを忘れてしまったから、今日はちゃんと出さないと。
そして今日は、娘の塾、新五年生の授業の始まりの日でもある。ママ、今日の塾、何時から? 始まる時間は前と同じみたいだよ。ただ終わる時間がね、遅くなるね。分かった。頑張ってくるよ。うん、頑張れ。ママも頑張る。うん、じゃぁ行ってらっしゃい。行ってきます。
玄関を出ると、ラヴェンダーが強風に揺れている。アメリカン・ブルーは、一本を除いてすっかり枯れてしまった。枯れてしまったことは分かっている。でもまだ、抜くことができないでいる。もういい加減、抜いてやらなければかわいそうかもしれない。
校庭の隅のプールは、今まさに陽光を燦々と受けて煌々と輝いている。風によって生まれる波紋は深く、次から次に生まれ出て。私はしばし目を奪われる。
ゴミを出して通りを渡ると、ちょうどバスがやって来た。私は飛び乗る。隣に座ってきた中学生らしき少年は、ゲームに熱中している。私はそんな彼の、指の動きを、ぼんやりと眺めている。
終点で降り、地下から地上へ出ると、ふわぁっと広がる光。見上げれば澄んだ水色。川は浪々と流れ、人々は足早に過ぎてゆく。
さぁ今日もまた一日が始まる。私は歩道橋を駆け下りて、横断歩道を渡る。


遠藤みちる HOMEMAIL

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