見つめる日々

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2010年02月16日(火) 
窓を開けると、ぐんと冷えた空気がそこに在った。雨がぽつりぽつり、降っている。その雨に手を差し出すと、空気よりあたたかくさえ感じられそうな大きな雨粒がぽつり。今日は雪になるかもしれないと、天気予報が言っていたっけ。空を見上げれば、暗闇の中でも分かる、一面雲が覆っている。今にもこちらに堕ちてきそうなほどくぐもった雲。
お湯を沸かし、紅茶を入れる。そこに檸檬を軽く絞ってみる。絞った手のひらを鼻に近づけると、ぷわんといい匂い。紅茶の色も、明るい色味に変わってゆく。
足元ではゴロが餌箱の中、ころりんと丸くなっている。おはようゴロ。私はいつものように声を掛ける。声に反応して、鼻をひくひくさせながら後ろ足で立つゴロ。私は人差し指の腹で、彼女の頭をこしこし撫でてやる。
テーブルの上、まだ捨てられないオールドローズ。もう萎れかけたその花びらを私は撫でてみる。はらり、また一枚、花びらが落ちる。それでもまだ生きているのだからと、私はまだ捨てられそうにない。ガーベラはまだぴんと花弁を伸ばして咲いている。濃い紅色が、台所の明かりを受けて静かに輝いている。
着替えながら、今朝も、暖房をつけようかどうしようかと悩む。もういい加減暖房を入れてもいい時期なんだと思うのだが、なかなかつけられないでいる。寒いのだから素直につければいいのに。そう思うのだが、スイッチに手が伸びていかない。
娘はまだまだ眠りの中。昨日夜、二人でじゃれあったせいで、布団が微妙に崩れている。私はそれをそっと整え、娘の首が冷えないように布団を掛け直す。

病院の日。いつもどおりに診察はあっけなく終わり、私は薬を受け取りに薬局へ。しばらく前から、分包をやめてもらうことにしたため、これまでよりは早い時間で薬が出てくる。私はそれを受け取って、待ち合わせの喫茶店へ。空からはぽつり、ぽつりと雨が降り出している。傘を持ってくればよかったかなぁと、空を見上げながら思う。
久しぶりに会った友人は、最近の出来事をいろいろ話して聞かせてくれる。娘さん二人との新しい生活、それにともなって生じる様々なやりとり。何となくだけれど、ベクトルが外に向いてきたのかも、といったことを彼女が話す。
ふと、無意識に人を傷つける、無知ゆえに人を傷つけるということの怖さについての話になる。意識あって人を傷つけるのであれば、それは加減もできるが、無知ゆえの、無意識によるものだとその加減さえできず。これほど怖いものはないね、と話し合う。本当にそうだと、つくづく思う。そして、また、侵入する、侵入されることについても話をする。侵入感のある人には、もうできるだけ近づきたくはないなぁと彼女が苦笑するのを、私は見守る。
こんなふうに穏やかに話ができるようになるまで、彼女とどのくらいの時間を経ただろう。知り合った最初はお互い高校生だった。でも多分その頃の私たちは、互いに侵し合っていた気がする。そして離れた。途中何度かすれ違いはするが、私たちはただすれ違うだけだった。
そうしてようやく再会して、今に至る。もし対等な親密さというものがあるのであれば、今の関係がそれに近いのかもしれないと思う。

娘の郵便を出しに郵便局へ。厚い手紙だ。一体何が書いてあるんだろう。郵便局で切手を買う折、局員さんにも言われる。厚い手紙ですねぇ。
ポストに落とすと、ことりと音がする。私はこの音が好きだ。この音の向こうには見えない扉があって、その扉をくぐると、まさにドラえもんのどこでもドアの如く、行きたい場所へ続いている、そんな気がする。
娘の手紙が無事に届きますように。そしてできるなら、相手から返事がちゃんと届きますように。私は祈りながら、郵便ポストから離れる。

お茶が瞬く間に冷めてゆく。それだけ冷えている。カップを持つと、ひんやりとした温度が指先を伝って背中まで走ってゆく。私は時計を見、娘に声を掛け、もう一度お湯を沸かす。今度は何にしよう、少し迷って、先日買い足した、アメリカの先住民に伝わるものだというハーブティーを入れる。
窓の外、徐々に徐々に、灰色の空が露になってきている。

ママ、ママ、この日、授業参観だよ。何の授業やるの? 二分の一成人式やるの! 何、それ? 成人式が二十歳でしょ、今私たち十歳だから、二分の一。なるほどぉ、じゃぁ行かなくちゃいけないね、何時間目? 多分五時間目だよ。なら大丈夫だ、その日午前中は病院だからね。うんうん。
そして娘は、見ていたドリフターズのDVDに合わせ、いきなり踊り始める。だから私は言ってみる。あのさぁ、あなた、お笑い芸人にでもなれば? なんで? だってそうやってるとき結構楽しそうだから。娘は私の声など聞いていないといったふうに、どんどん踊りに夢中になってゆく。そしてはたと気づいたように、立ち止まる。ねぇママ、お笑い芸人ってどうやったらなれるの?

実家に電話をする。おめでとう、と私が言うと、全然めでたくないわよ、と母が笑う。そして、検査結果を話し出す。
とりあえず今のところ大丈夫だということ。ただ四年間、三ヶ月ごとに検査を受けなければいけないこと。今ステージ2だから、できるならステージ3のうちに寿命を終えたいということ。その他諸々。
ステージ2、という言葉が、私の胸に刺さる。それはもうすでに分かっていたことなのだけれども、それでも痛い。母の肝臓は今頃、どんな色をしているんだろう。できることなら確かめて、そして塗り替えられるものなら塗り替えてしまいたい。

それじゃぁね。じゃぁね、あ、ママ、今日お弁当作ってね。了解、戻ったらすぐお弁当作っておくよ。うん。
私は娘に見送られながら玄関を出る。階段を駆け下りて自転車へ。しかし走り出してすぐ気づく。まだ雨が降っている。でももう走り出した後。今更戻るのもなんだかばかばかしい。私はそのまま走る。
公園の池には氷が張っている。私はその氷を爪先でつんつん突付いてみる。それなりに厚いらしい。簡単には割れないそれを、私はしばし見つめる。映るのは暗い灰色の空と裸の枝々。でもその桜の枝にはもう、新芽が膨らんでおり。固い固い新芽。いつ芽吹くのか、今はまだ分からないけれど。それでもここにこうして新芽は在り。
高架下を潜り、埋立地へ。ふと思う。ここにもし雪が積もったらどんな景色になるのだろう。真っ白に輝くこの街を一度見てみたい。
真っ直ぐ走り、美術館の脇へ自転車を止める。見上げれば、モミジフウの樹にはまだあの実がブラり、ぶらりとぶらさがっている。強い風を受けて揺れるその実は、黒褐色の塊。まるで今私の喉元にひっかかるもののようだ。私は見上げながらそんなことを思う。
海は低くざわめき。白い波さえもが灰色がかって見える。
このまま荒れ狂ってしまえばいいのに。そんなことを思う。荒れ狂い、猛り狂って、あらゆるものを呑み込んでしまえばいいのに。突然飛び上がった魚が、銀の腹を翻し、再び海に堕ちてゆく。あの海の中はあたたかいんだろうか。いっそのことここから飛び込んでしまいたい。そんなこと出来ない相談だと分かっていながら、私は想像してしまう。
海を後にし、川沿いに自転車を走らせる。しばらく行くと、鴎が首を竦めて、それでも風に向かってひっしと両足を踏ん張らせている。群れる鴎。私はその姿をただじっと見つめる。真っ白なその体躯が、灰色の世界の中、唯一輝いている。
「世界は、ですから、あなたの延長です。もしも一人の個人として、あなたが憎しみを滅ぼしたいと願うなら、そのときあなたは個人として憎むのをやめなければならないのです。憎しみを滅ぼすには、それがどんなかたちをとるものであれ、あらゆる憎しみから自分を切り離さなければなりません。それにとらわれているかぎり、あなたは無知と恐怖の世界の一部なのです。世界はあなたの延長であり、世界は複製され、増幅されたあなた自身なのです。世界は個人と離れて存在するものではありません」「あなたが無思慮で、無知と憎悪、貪欲にとらわれているかぎり、世界はあなたの延長なのです。しかし、あなたが真剣で、思慮深く、そして目覚めているとき、そこには苦痛と悲しみを生み出すこうした醜い原因からの分離があるだけでなく、その理解の中には、完全性、全体性があるのです」。(クリシュナムルティ)
心の中、繰り返し呟いてみる。そして私は、顔を上げて前を見つめる。またここからだ、ここから始めればいい。自分の中に渦巻くものはこうして棄てて、またここから始めればいい。
そう、今日という一日が、また、始まってゆくのだから。


遠藤みちる HOMEMAIL

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