2010年02月18日(木) |
冷え込んだ部屋。妙な頭痛で目が覚める。こめかみから後頭部にかけて、孫悟空の輪で締め付けられているような、そんな痛み。これは薬を飲まないとやってられないかもしれない。そう思いながらも、しばらく我慢してみることにする。 軽いかららという音とがららという豪快な音とが聴こえてくる。ゴロとミルクだ。ふたりとも回し車で遊んでいる。おはようミルク、おはようゴロ。私は声を掛ける。ふたりが揃ってこちらを振り向く。そしてたたたっと入り口のところに駆け寄ってくる。私は指先でちょんちょんとそれぞれの籠を叩く。ごめんね、今日は頭痛いから、ちょっと相手できそうにないや。言い訳をしてみる。 お湯を沸かしながら窓に近寄る。と、雪だ。雪が舞っている。私は勢い良く窓を開ける。闇の中、ほんわりと雪が舞っているその光景は、こちらをうっとりとさせるようなそんな光景で。私はしばし見惚れる。北から南の方向へ、斜めに舞う雪。街灯の灯りの輪の中で、ふわふわふわふわ、舞い飛ぶ雪。娘が起きたらさぞ喜ぶだろう。私は窓をぴたりと閉め、とりあえず中に入る。 今朝もまず入れるのは生姜茶。この香りと味は一度飲んだら癖になるんじゃないだろうか。独特の甘みと刺激とが混ざり合っている。私はカップにたっぷりとお湯を注ぐ。 とりあえず椅子に座り、こめかみをぐりぐり指で刺激してみる。どうにもこうにも頭痛が去ってくれない。このままだと一日中頭痛に悩まされそうだ。私は結局薬を飲むことにする。
本の続き。「もし観念ではなく、あるがままのもの、つまり事実を見るなら、未来や明日についての観念や概念こそが、実際には恐怖を生み出していることに気づくでしょう。恐怖を作り出しているのは事実ではないのです」「過去が恐怖の影響をあなたに伝えるのか、それとも実際に起きている恐怖の影響にあなたが気づいているのか」「何かに依存するのは、それが私の虚しさを埋めてくれるからです」「依存は私の虚しさや孤独、満たされぬ思いを示し、それがまた私をあなたに依存させるのです」「つまり私は依存している……ということは私は、孤独にさいなまれることや虚しさを感じることを恐れているのです。そこで私は物や観念や人間たちでそれを埋めているわけです」「恐怖から離れようとすることがかえって恐怖を強めるという事実」「学ぶには好奇心が必要だが、過去からの抑圧があってはならない。そして恐怖について学ぶには恐怖から逃げてはならない、これが事実であり、真実です」「重要なのは、自分の内部で起きている恐怖の全過程を自覚し、観察し、それについて学ぶということです」「言葉は過去の経験に結びついて危機感を呼び起こし、恐怖を生み出します」「私たちはそういった言葉に支配されているのです」「言葉は過去や知識と結びついている」「すべての言葉をわきに置いたうえで自分自身を深く探求しなければならないということです」「実際に無垢な状態でいる、ということです。それは恐怖をもたないという意味であり、その結果精神は時の推移を経ずに、一瞬にして完璧に成熟するのです。そしてそれは全的な注意力、つまりすべての思考、すべての言葉、すべてのふるまいへの自覚があるときにかぎって可能なのです。精神は言葉という障碍物がないとき、解釈や正当化や非難がないときに注意深くいられるのです。そのような精神はそれ自身を照らし出す光りです。そしてそのような光りである精神だけが恐怖をもたないのです」。 読み進めるほど、正直、心がどきどきしてくる。それは、何かに唐突に出遭ったときのどきどきではなくて、もっとこう、淡々とした中でのどきどきだ。うまく表現できないのがもどかしいが。 クリシュナムルティの言葉を辿っていると、どうしても、自己一致と無条件の受容ということが浮かび上がってくる。私の中に。そして、私の心は深く沈みこむ。私の内奥に深く深く。
鶏肉が安かったのでまた鶏肉を買ってみる。さて、何を作ろう。お弁当のおかずだ、何がいいだろう。迷った挙句、鶏肉を衣を付けて揚げてみる。そこに甘辛のあんかけ。これでまぁ何とかなるんじゃないか? 半熟に茹でた卵をじぐざぐに切って半分に割り、お弁当に入れる。あとは野菜と苺。そして塩むすび。 作り終えたお弁当をテーブルに乗せ、私はお茶を入れる。何を飲もう。さっき見つけた桜緑茶なるものを飲んでみようか。私は早速カップにお湯を注ぐ。途端に辺りに広がる桜の香り。あぁこんなんなら、和菓子を買ってくるんだった。少々後悔。無性に餡子が食べたくなる香りだ。そして、同時に、春を思い出させるいい香り。 部屋に掃除機をかけていると、娘が帰ってくる。おかえり、ただいま。ねぇ聞いてよ。何? 今日テスト四枚もやったんだよ。ふぅん。先生ね、授業が遅れてるからテストも溜め込んでて、なのに明日も出張なんだよ。え? そうなの? だめじゃん。ほんとだめなんだよ、どうすんだろ、ほんとに。隣のクラスなんてもうずっと先にいってるのに。 彼女の話はひたすら続く。それでね、今日の国語の宿題が、だじゃれを三つ考えてくるって宿題なんだよ。はい? だじゃれ? だからさぁ、カエルがかえるだとか、イルカはいるかだとか、そういうの。あ、もう二つできた。ママの時代には、古典がこてん、ってのがあった。何それ? 古典がこてんと転ぶんじゃないの? 変なの! でもまぁいいや、これでもう三つできた。宿題終わり。わはははは。こんなんでほんとに宿題なの? 先生がいいっていうんだからいいんじゃないの? へぇぇ。なんかママ、よくわかんない。 用事があって私も駅まで出ることにする。一緒にバスに乗ると、娘はふんふんと鼻歌を歌い始める。世界でひとつだけの花、という歌らしい。この曲って誰の曲だっけ? Mの曲でしょ。えーーー、違うよ、Sの曲だよ。いや、違うよ、Sはその歌を歌ってるだけで、歌を作ったのはもともとMなんだよ。Sって自分で歌作らないの? うーん、知らないけど、少なくともこの曲はMの歌だよ。なんだぁ、つまんない。なんで? すごい曲だなぁって思ってたから。そうなんだ、どういうのがすごいの? だって、誰でも知ってるでしょ? ばぁばもじぃじも知ってる。教科書にも載ってる。なんかすごいなぁって思ってた。あぁ、ばぁばもじぃじも知ってるって或る意味すごいよね、あの人たちが知ってる歌謡曲なんてほとんどないもんね。だからさぁ、偉大な歌だなぁって思ってたんだ。偉大、かぁ、なるほどなぁ。自分の作った歌がいろんな人に歌われるんだよ? 想像しただけですごくない? なるほどなぁ、考えてもみなかったよ、ママ。ママって想像力なさすぎっ! え?! ママは本ばっかり読んでるからだめなんだよ。え?! もっと世界を見なくちゃ! …。 まさか娘にそんなことを言われるとは思わなかった。想像力が欠如は逆に、最近の子供たちの傾向なのかと私は思っていたのだが。いや、しかし、想像力という言葉を使う箇所が、微妙に違っているのかもしれない。でもまぁここで言い返しても、堂々巡りになりそうなので、私は口を噤む。いや、娘よ、ママにだって想像力はあるぞよ、と、心の内で言い返しながら。
家に帰り、ふと思いついて風呂にお湯をはる。髪を洗おう、そう思った。もう腰まで届くほど伸びた髪を、ふだんゆっくりいたわってやる暇がない。だからこういうとき、丹念にトリートメントでもしてやろう、そう思った。 入浴剤を入れて、心の内で娘にこっそりお風呂入ってごめんねと謝りながら、湯に浸かる。体があったまったせいだろうか、気づけばうとうとしてきている。私は慌てて湯から上がり、髪を洗い始める。 シャンプーは二度、そして集中トリートメント剤を髪につける。よく揉み込む。蒸しタオルを頭に巻いて再び入浴。十分くらい待てばちょうどいいだろう。 洗い立ての髪にドライヤーを当てながら、再び娘とのやりとりを私は思い出す。想像力の欠如ほど或る意味怖いものはないと思う。鏡の中映る顔は、少し疲れてはいるが、お風呂上りということもあって血色はいい。私はついでにクリームでマッサージもしてみることにする。たまにのことだ、ご褒美だ、娘に対して申し訳ない気持ちに言い訳をしながら。 起きてきた娘に雪だよと告げると、娘は窓を思い切り開けた。ほんとだ、雪だ! もう積もってるよ、ママ、ほら、屋根がみんな白いよっ。うんうん。雪って本当は虹色なんじゃないかって時々思うよ。へぇ、どうして? だってさぁ、雪ってわくわくするじゃん。うん。わくわくして、どきどきして、嬉しくなるじゃん。そういう色ってさぁ、ただ白ひとつなわけじゃなくて、いろんな綺麗な色が交じり合っているような気がする。なるほどぉ。そうかもしれないね、うん。 行ってらっしゃい。行ってきます。私は登校班を見送って、バス停へ。濡れたアスファルト、滑らぬよう気をつけながら歩く。 駅はだいぶ混雑しており、多くの人が首を竦めて歩いている。でも何故だろう、私は今朝それほど寒さを感じない。いや、確かに寒いのだが、でも昨日の午後の方が今日より寒かったような気がする。 各駅停車の電車に乗り、目的の駅へ。その駅はかつてさんざん、そうおなかが大きい頃、通った駅だ。久しぶりに降りる。店の名前は変わっていないけれども、店の中は大きく変わった。昔の面影はどこにもない。とりあえずロイヤルミルクティを飲もう。そう思いながら入る。 シクラメンが大きなテーブルの中央、飾られており。あぁ母の好きな花のひとつだ、と思い出す。母の病は、続いてはいるけれども、でも、旅行できないわけでもないだろう。早くお金を貯めて、温泉のひとつでもプレゼントしたい。そう思う。 さぁやることをやってしまわねば。まだ雪は降り続いている。 |
|