2010年02月27日(土) |
午前五時。腰を庇いながら起き上がる。どうもこの、起きぬけの時に痛みが出るらしい。起きて顔を洗って、お茶を飲み始める頃になると痛みはすっと消えてゆくのだが。あの時痛めた腰が何か訴えているんだろうか。でも私にはそれが何を訴えようとしているのか分からない。近いうちにあの診療所へ行こうか。そう思い出してもう何ヶ月放置しているんだろう。気軽に通うには今住む場所からあの場所はちょっと遠い。 ゴロが早速こちらを窺っている。おはようゴロ。私は声を掛ける。掛けるのだが、しゃがみこむのはちょっと腰に辛く、立ったまま。彼女は餌箱の中にでんと座り、こちらを見上げているという具合。ご飯を食べているわけではないのだが、そこが今は居心地がいいらしい。てん、と、お尻をついて、こちらを見上げている。私は膝を曲げて、彼女の頭をちょこっとだけ撫でる。 お湯を沸かし、お茶を入れる。今日も生姜茶。いつもの香りが私の鼻をくすぐる。もし私がもっと匂いに敏感であったら、もっともっと香りを嗅いでいられるだろうにと思うと少し寂しい。 昨日のうちにご飯を炊いておいた。私はそれで塩むすびを作る。娘の朝ごはん用と、保存用。ごりごりとした粒のはっきりしている塩をささっとかけて、ご飯を混ぜる。そこに梅干をひとつ挟んで握ってゆく。冷たい手が瞬く間に赤く染まってゆく。熱い熱い、そう思いながらもぎゅっぎゅっと握る。 窓を開けるとやはり外は雨。結構な勢いで降っている。天気予報は雨のち曇りとなっているけれども、さて、どうだろう。果たして夕方には止むんだろうか、この雨は。私は空を見上げながら思う。ベランダの柵に沿って並べてあるプランター、イフェイオンやムスカリが植わっている。みな雨に向かって両手を広げ、一身に雨を浴びている。さぞかし気持ちがいいだろうなと思う。昔、豪雨の中、傘もささずに飛び出していったことがあった。全身ぐしょぐしょに濡れるわけなのだが、それが何とも気持ちよかった。すべてを洗い流してもらえるような、そんな感触だった。心の中まで洗い流される、そんな感じで。もちろん家に戻って母に叱られたのだけれど、それでも、あの気持ちよさは消えなかった。 風があるからか、窓際に並べたプランターにも雨粒がいくつか飛んできている。病気を気にして土を乾かし気味にしていたのだが、まぁ今日くらいいいだろう。艶のある少し固めの葉をもつマリリン・モンローなどは、嬉しそうに葉を広げている。雨粒がぱんぱんと小さな音を立てて弾かれてゆく。
授業の日。交流分析の中の交流パターン分析を学ぶ。ストロークがいかに必要であるかは自分の体験からつくづく感じている。ストロークの法則を読みながら、本当にそうだと頷く。相補交流、交叉交流、裏面交流についても学ぶ。もしかしたら日本人というのは裏面交流がとても多くあるのかもしれないと感じる。言葉の裏から仄めかす、というような。学びながら、今朝交わした娘との会話はこの中のどの交流に当てはまるのだろうなどと考えてみる。しかし。 そもそも、構造分析で学んだはずの、自我状態のそれぞれの特徴がまだ掴みきれていないせいか、細かい部分が分かりきれない。自分の勉強不足をつくづく呪いたくなる。ひとつひとつをきちんと踏んでいかないと、後で絶対後悔することになることが分かっているというのに。舌打ちしたくなって、あぁこれは非言語的ストロークの否定的な部分だなと気づき、苦笑する。こんなふうにひとつひとつ追っていったら、心がどうかしそうな気がするが、これもまた勉強のうち、と自分に納得させる。 自分が選んでしている勉強だ、悔いの残らぬようやらなければ。 そしてふと思う。我が家にはストロークは溢れているだろうか。弟が昔言っていた。親にされてもっともいやだったこと、それは無視されることだ、同じことを自分の子供にだけはしたくない。本当にそうだ。それだけはしたくない。 私は彼女のストロークを無視したりしていやしないだろうか。ないがしろにしていやしないだろうか。それが一番、気にかかる。
「あなたはあなた自身の教師となり、弟子とならねばなりません。あなたは人が価値ある、必要なものとして受け容れてきたものすべてを問い直さなければならないのです」「誰か従う相手がいないとき、あなたはとても孤独だと感じます。そのときは孤独でいなさい。なぜあなたは独りになることを恐れるのでしょう? それはあなたがあるがままの自分と向き合って、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪悪感にまみれ、不安な―――ちっぽけで卑しい、二番煎じの存在であることを見出すからです。その事実と向き合いなさい。あなたが逃げ出すとたん、恐怖が始まるのです」「自分自身を究明するとき、私たちは自分を外部の世界から孤立させているのではありません。それは不健康なプロセスではないのです。人は世界中で私たちと同じ日常の問題に捕らえられています。ですから、自分自身を究明するとき、私たちは少しも神経症的になっているわけではないのです。なぜなら、個人的なものと集合的なものとの間に違いは何もないからです。それは事実です。私は自分と似た世界を創ってきたのです。ですから部分と全体との間の戦いの中で迷ってしまわないようにしましょう」「私は個人の意識であると共に社会の意識でもある、私自身のセルフの全フィールドに気づかなければなりません」「私は関係の中でだけ、自分自身を観察することができます。なぜなら、すべての生は関係だからです」「私は自分だけでは存在できません。私は人々との、事物、思想との関係だけで存在します。そして内的な事物との関係だけでなく、外的な事物や人々との自分の関係を調べることを通じて、私は自分自身を理解し始めるのです」「私は抽象的な存在ではありません。それゆえ私は自分を現実の中で―――私がかくあれかしと願う自分ではなく、現実にあるそのままの私を―――究明しなければならないのです」
帰宅した娘は、一番にテレビをつけた。そしてフィギュアスケートの結果を私に尋ねてくる。これこれこうだったらしいよと告げると、途端に表情が暗くなる。途中からジャンプが乱れてしんどそうだったよと私が話すと、余計に顔が暗くなる。そして、こんなことを言う。やっぱりさぁ、みんながみんな、あの子に金、金って言うから、銀メダルとれたというのに泣けてきちゃうんじゃないの? うーん、それはどうなんだろう、確かに、みんなが金金って言うからっていうのもなかったわけじゃないだろうけれども、それより、ママには、自分で納得のいく演技ができなかった、っていうところで泣いているように見えたよ。ほんと? そうなの? うん、ママにはそう見えた。あぁよかった。ん? なんで? だってさぁ、なんかさぁ、人の言うことって無責任じゃん? うん、そうだね、私は笑う。で? 無責任な人の言い分に付き合ってたら、人生生きていけないじゃん。ははは、そうだね。あの子、日本の人たちの期待に押し潰されちゃって生きていけなくなるんじゃないかって思えたの。だからね、心配だったの。なるほどぉ、そうかぁ。でも、もし、自分で自分に納得できなかった、っていうところで泣いてるなら、よかったよ。そう? うん、なんか救われる。そっかぁ。 でもさ、銀って、なんか白くて、メダルって感じがしないよね。え?! 金と銅の方が、価値あるって感じがする! はっはっは。そうなのかぁ。ママは銀色って好きなんだけどな。ええ? そうなの? そうして娘は出掛けていった。空は曇り空、どんよりとした曇り空。夕焼けも何も、見えない。
母と電話で話しながら、私は母や父と、どういう交流をもってきたのだろうと改めて考える。いつもどこかすれ違いだった。いつでも父や母の言うことは正論で、威圧的で、鋭く私に刺さった。私はもっと父や母とじゃれあいたかった。何ともないところで笑い合いたかった。でもそれは、叶わなかった。 それが辛くて、寂しくて、私は自然、ひとり遊びを覚えた。幻の家族の中で、それぞれの役柄を演じて過ごしたりしたこともあった。そして父母を演じるとき、時折涙が出たことを思い出す。 私はやりとりに飢えていた。あたたかいやりとりにいつでも飢えていた。だから、否定的なものにさえ縋った。その結果、自分をずいぶん貶めた。近づいてはいけない相手にまで近づいて、必死に尾を振った。それによってさらにずたぼろになる危険性が見えていても、なお。 そしてふと思う。私にとってのリストカットは、私と私のやりとりだったのかもしれない、と。私が私を確認し、その応えとして血が流れると安心する、そこに在る、ちゃんと生きてる、まだ生きてる、そのことを確認しほっとする、というような。 そのようにしか自己確認をできなかったあの時期の私に、今は苦笑できる。そのせいでどれほど多くの他者を失ったか。それも分かる。それでも止まなかった、私自身が生きていることをそうやって確かめるしか私には術がなかった、そのことも、分かる。 今ここにこうして生き延びてあることは、ああしたことたちの結果なのだ、とも。
じゃぁね、それじゃぁね、あ、ママ、メール頂戴ね! うん、分かった、メールするね。早く迎えに来てね。了解! そう言って手を振り合って別れる。彼女は電車の方へ、私は雨の中へ。 雨の中、多くの人が働いている。この埋立地。建設中の建物たちのために多くの人が。雨に濡れながら。私はその脇をすり抜けて、歩く。 交差点、空を見上げる。迫ってくる灰色の雲、空一面を覆い隠し。私は手を伸ばしてみる。届かないと分かっていながら。 さぁ今日がまた、始まってゆく。 |
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