見つめる日々

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2010年02月26日(金) 
目を覚ます。午前五時。起き上がり、ハムスターの籠を覗く。ゴロはいつものように起きている。おはようゴロ。私は声を掛ける。彼女はその声や私の気配に反応して、すぐ籠の入り口に近づいてくる。頭のところだけちょこちょこと撫でてやる。そしてまた後でねと詫びる。私はそうしてココアの籠を見つめる。怪我はしていないか、情緒不安定になっていやしないか、それが心配だったが、彼女はぐっすり眠っているようだ。その隣の籠、起き出したミルクががっしと籠の入り口のところに齧りついてアピールしている。おはようミルク。でも籠を開けると彼女の場合飛び出してくるので、今はちょっと止めておく。
顔を洗い、鏡を覗く。私が鏡を覗く時間で一番長いのは多分、この朝の時間だけだ。といっても、一分もない。洗い立ての顔をただじっと見つめるだけだ。先日友人に会った折、友人が折々に鏡を覗いているのを見て感心した。私は手鏡という小物は好きなのだが、それを覗き込むということがない。持っているだけで終わってしまう。これじゃいかんなと思った次第。
お湯を沸かしながらテーブルを見やる。もうテーブルに残っているのは、名前を忘れてしまった、鞠のような形をした小さな小さな赤い花とレースフラワーだけ。ちょっと寂しい。かといって、自分で買ってくるのもこれもまたちょっと今は寂しい。
そう、昨日帰宅したら、ガーベラがくたりと萎れていたのだ。あぁ、寿命を全うしたのだな、と思った。そして、自然、ありがとう、と言っていた。萎れたガーベラは、まさに首がかくんと折れ、項垂れている。そんな項垂れる必要はないんだよ、君は一生懸命、今日というこの日まで咲き続けてくれたのだから、と声を掛ける。ありがとうありがとう、長いことありがとう、そう声を掛けながら、ビニールに包む。
今朝もまた生姜茶を入れる。入れた途端にふわりと香る生姜の匂いが、たまらなく好きだ。それでいながら、刺激は決して強くなく、ほのかに甘い味のするこのお茶。私はマグカップを両手で包み込みながら机へ運ぶ。半分開けた窓からは、ぬるい風が吹き込んでくる。今日は天気予報の通り雨がふるのだな、と、この湿気に思う。カップから立ち上る湯気が、ゆっくりと窓の外へ流れ出してゆく。

友人を待ちながら窓の外を眺めていると、濃い霧が辺りを覆っていくのに出会った。それはもう濃密な霧で。ここは本当にこの街なのかと思うほどに濃い霧で。私は呆然と立ち尽くした。一メートル先も定かではなくなった世界を私は見つめた。昔菅平でこういう光景はよく出会ったけれども、まさかこの街で出会うとは。思ってもみなかった。呆気にとられながら、私はただ見つめていた。
それは昼過ぎまで残り。そしてやがて、おのずと消えていった。露になってゆく街景。まるで一時の夢のように。

このところの生活の著しい変化に少し疲れているかのような友人は、ゆっくりと珈琲を飲んでいる。明日役所での審議があるのだという。それはもしかしたら初のケースになるかもしれないことで、だから彼女も緊張しているのだろう、疲れた顔が微妙に強張っている。そんな彼女の顔を見ながら、私もカフェオレを飲んでいる。
最近拒否することができるようになったよ、と彼女が話し出す。これまで、人に対してノーが言えなくていたけれども、最近言えるようになってきた、と。
私もそうなのだが、人と相対していると、つい、ノーが言えなくなっている自分に気づくことがある。そして気づいたときには、もう断りようがないところまで来ているというのが常だったりする。でも、それは多分違うのだ。断ることは悪いのではなく、断ることは必要なことなのだ、と、ここ何年かでようやく納得することができるようになってきた。意思表示をしっかり示すことは、決して悪いことではないのだ、と。
拒絶してはいけない、というような考えが何処かにあった。頭の何処かにそういう思い込みがあった。小さい頃からの習慣で、ノーと言うことはいけないことなのだ、と思い込んでしまっていた。
でもそうやって無理を重ねられるのには限度がある。限度を越えたら、自分が倒れる。自分が倒れたらどうなるか。今はそのことを思う。
自分が倒れたら、自分の大切な人たちを悲しませることになる。そういう事態が起こってしまう。それなら。最初に意思表示するべきなのだ。きっと。
そんな単純なことが、ずっとできなかった。できないできた。だから、できるようになって、すとんと体が軽くなった。
友人が話を続けている。あの人には昔本当に世話になったから、だからお返ししなくちゃと思う。そう話した彼女の言葉に私は引っかかる。かつての私がそこに在た。だから私は、彼女に話してみる。
確かに、かつてお世話になったことはなったんだろう、でもそれはその人の意思でしたことであって、それ以外の何者でもなくて、だからそれをその人に直接返さなくちゃいけないっていうのはどうなんだろう。私は言われたことがあるのだけれども、自分に返す必要はない、むしろ、今君の周りにいて、君の手が必要な人たちに返していけばいい、って。そう言われたことがあるよ。
私はそれを言われたとき、はっと目が覚める思いがしたのだ。それまで、これだけ世話になってきたのだから、これだけやってもらってきたのだから、この人たちにちゃんとお返ししなくちゃいけないと必死に思ってきた。でもそれは多分私にとってすごく負担にもなっていた。でも。
そうじゃないんだな、とその時そう言われて気づいた。そうじゃなくていいんだな、と。気づいた。私は彼らにしてもらったことにありがとうと思う、そう思うなら、思うからこそ、今私の周りで私の手を必要としてくれている人たちに返していけばいいのだ、と。そうやって続いていくのだ、回っていくのだ、と。
ジャスミン茶、プーアル茶、黒豆ほうじ茶、ライチ紅茶。私たちは次々お茶を飲みながら話し続ける。

「あらゆる種類の恐怖を投げ捨てることからやってくるこのエネルギーがあるとき、そのエネルギーが劇的な内部の革命をひきおこすのです。あなたはそれについて何もする必要はないのです」「それであなたは一人取り残されることになるのですが、それがこのすべてに対して非常に真剣になるときの人の実際の状態なのです。そしてもう助けを求めて他の人やものに頼ろうとしていないので、あなたは自由に発見できるようになっているのです。そして自由があるとき、そこにはエネルギーがあります。自由があるとき、それは何も間違ったことはなしえないのです。自由は反抗とは全く異なったものです。自由があるとき、行ないが正しいとか間違っているとかの問題はありません。あなたは自由であり、その中心から行動するのです。そしてここに恐怖はなく、恐怖をもたない精神は大きな愛の能力を持ちます。そして愛があるとき、それはしたいことができるのです」
「私たちが今しようとしていることは、従って、自分自身について学ぶことです」「自分自身を理解するには、昨日の権威も千年前の権威も必要ではありません。なぜなら、私たちは生きた存在で、つねに動き、流れ、決して休止することはないからです。自分自身を昨日の死んだ権威に照らして見るとき、私たちはその生きた運動と、その運動がもつ美と質を理解しそこねるのです」「あなた自身のものであると他のものであるとを問わず、すべての権威から自由になることは、昨日のすべてに向かって死ぬことです。そうしてこそあなたの精神はつねに新鮮で、若々しく、無垢で、活力と情熱に満ちていられるのです。人が学び、観察するのは、その状態においてのみです。そしてこのためには、大きな気づきが、あなた自身の内部で進行していることについての実際的な気づきが必要となります―――それを正したり、こうあるべきだとか、あるべきでないとか言うことなしに」「自分自身についてあなたが知っていることすべてを忘れなさい。自分についてあれこれ考えてきたことのすべてを忘れ、あたかも何一つ知らないかのようにして、出発するのです」「昨日の思い出すべてを背後に置き去りにして、一緒に旅に出ようではありませんか―――そうして私たちは今初めて自分自身を理解し始めるのです」

ママ、ココアがいない! そう娘が叫んだ夕暮れ。何故いないんだと聴くと、ちょっとテーブルに乗せたまま勉強をしていたら、その隙にココアが何処かへ行ってしまったらしい。娘はもう、泣き出している。泣き出しながら、ありとあらゆるものをひっくり返し始めている。
それを見て、私は逆に落ち着いた。さて、何処を探そう。ここでいなくなったのだから、この辺りか。適当に辺りをつけ、ココアを探してみる。いない。ここにはいない。じゃぁ何処だ。と、ふとカーテンの裾を見れば、ココアがそこにくっついている。いたよ! 私は娘に声を掛ける。もう顔がぐちゃぐちゃだ。私は棚をどかし、カーテンの裾をひっぱり上げ、ココアに手を伸ばす。が、もう少しのところで届かない。仕方ない、机の後ろに回りこむか、と思っていたら、ちょうどそこにココアがやってきた。私は彼女の背中を摘み上げる。
しばらく娘の泣くのは止まらなかった。彼女は泣いた。さめざめと泣いた。この世が終わるかというほど泣いていた。多分彼女がここまで泣くのは初めてだと思う。私はそれをただじっと見つめていた。
ようやく泣き終えた娘は、抱きしめていたココアを籠に戻し、私のところへやってきた。ごめんなさい。彼女はそう言った。何がごめんなさいなの? ココア見てなくてごめんなさい。そうじゃないでしょ、ココアをそこに乗せたまま勉強しようとしたのがいけないんじゃないの? うん。勉強するときはもうココアはここには連れてこない。分かった? 分かった。
でも、娘の長所でもあるのだが、彼女は気分の転換が実に早い。しばらくすると、荒れた部屋を片付け始めた。あーあ、ココアのせいでこんなになっちゃったよぉ、と歌うように言いながら片付けている。私はそれを椅子に座って眺めている。これは彼女が片付ける分だと、手を出したくなるのをこらえて眺めている。

ニュースを見ていた娘が言う。ねぇママ、すんごい残酷じゃないの、これ。うん、そうだね。金メダル金メダルって、うるさいよ。そんなのどうでもいいじゃん、それにさ、この人以外にもこの競技に参加してる選手いるんだよ? その人たちのこと全然何も言わないってどうなの? 金メダル取れそうに無いから関係ないってこと? どうなんだろうねぇ、ママもこれ聴いてるとどうかと思うよ。参加することに意義があるとか言っておきながら、全然違うことしてんじゃん。そうだね。人間ってなんでこんなに残酷なことできるんだ? ははは。人間だからできるんだろうね、そうしてしまうんだろうね。うーん、納得できない。納得しなくていいよ。

じゃぁね、それじゃぁね。娘はココアを連れてきて、ココアがごめんねって言ってるよと言う。ココアは別に悪いことしてないでしょ、ココアは開放されたと思ったから好きに歩いただけなんだから、と私も応える。ココアは声をあげないし、こんなにちっちゃいんだから、あなたがしっかり見てあげないとだめなんだよ、と。うん、分かった、娘は神妙な顔をして応える。
じゃ、行ってきます。行ってらっしゃーい! 娘の声に送られ、傘を持って私は玄関を出る。ちょうどやってきたバスに飛び乗り、駅へ。それにしてもあたたかい。ぬるい。こんなにぬるいと何だか気持ちが悪い。
川を渡るところで私は立ち止まる。雨雲に覆われた空からは降り注ぐ陽光もなく。川は暗緑色をしている。さざなみだつ水面が、震えるようにして動いている。昨日電話をくれた友人の顔が思い浮かぶ。何とも誰とも比較することなく、自分が信じるようにやっていけばいい。
川はそうして流れ続け。私は歩き出す。今日に向かって。


遠藤みちる HOMEMAIL

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