2010年02月25日(木) |
寝過ごした、と時計を見ると午前三時。何が寝過ごしたんだろう、首を傾げる。別に夢を見ていたというわけでもない。が、寝過ごした、と慌てたのだ。こうなるともう、再び眠りに戻ることができない。仕方なく、しばらく娘の寝顔を見つめて過ごす。塾でドジノートなるものを作ることになった娘は、ノート買ったおかげで本を買うお金がなくなっちゃった、と嘆いていた。でもドジノートは、勉強が足りなかった子が作るノートらしい。それができないと居残りをさせられるとか。このところ娘の勉強をちゃんと見てやっていなかったことを私は深く反省する。またじっくりついて見てやる時間を作らなければいけないな、と思う。自分で進んで勉強をやる子なんて、そっちの方が私から見るとちょっと気持ち悪い。本当なら外で思い切り遊べる時間を、勉強にあてているのだ。いやいややるのが普通だろう。娘は天下泰平な顔をして眠っている。夢なんて見る暇もないかもしれない。そのくらい忙しい毎日。ふと思う。彼女は目を覚ますときいつも、どんな気持ちで目を覚ますのだろう。 テーブルの上のガーベラは、花びらが柔らかくなってきてしまった。もう終わりなんだ、と私は知る。ここまで長いことここで咲いてくれたことに本当に感謝している。花というのは不思議なもので、私の心を柔らかくしてくれる。それがどんな花であっても。ただそこに在るというだけで、ただそこで咲いているというだけで、私はほっとさせられる。そういう存在だ。カレンダーを見、ほぼ一ヶ月、ここで咲いていてくれたことを思う。でもまだ咲いている。まだ数日は保つだろう。それまで、精一杯咲いておくれ。 お湯を沸かし、お茶を入れる。生姜茶。プーアル茶と生姜茶の比率が絶妙だなと、飲むほどに思う。そして甜茶の甘みが何とも言えない。何度飲んでもおいしい。 足元で音がする。ココアが巣から出てきたところだった。おはようココア。私は声を掛ける。すると彼女がこちらを見上げ、とことこ歩いて入り口のところまでやって来た。そして、がっしと籠に齧りついて、出してよぉという仕草を見せる。時間もたっぷりあることだし、と、私は彼女を抱き上げる。そして背中とおなかを交互に撫でてやる。しばらくじっとしていたココアは、やがて私の手を昇り始め、肩へ。うなじを通って反対側の肩へ。忙しげに動き回る。そして右肩のところで顔を洗い始める。 私はココアを肩に乗せたまま、窓を開ける。ぬるい。何よりも先にそう思った。ぬるいのだ、空気が。冬の空気じゃぁない。あの、ぴんと張り詰めた静けさは何処へ行ってしまったのだろう。今のこの空気は、ゆるんだ糸のようだ。私はちょっとがっかりする。私はあの冬の寒さが、凍てつく寒さが大好きなのだ。 点る灯りは三つ。その点を結ぶと直角三角形がちょうど描ける。空に星はなく、薄い雲がかかっているようだ。霞がかっているとでもいうのだろうか。闇に霞がかかっているというのも何だか妙な表現だけれども。街灯はしんしんとそこに在り、点々と大通りを照らしている。こうして見ると、我が町の街灯は、大通り沿いにしかないかのように見える。細々した細道は、今すっかり闇に沈んで、何処にどんな道があるかなど全く分からない。目で辿ることもできない。コンビニエンスストアさえこの丘にはないから余計に闇は濃く沈む。
一旦娘のお弁当を作りに帰宅する。部屋の中にまで暖かい陽射しが燦々と降り注いでいる。私は思い切り窓を開け、部屋に風を通す。 ベランダの薔薇は、次々と新芽を出しているのだが。パスカリの一本と、もう一本、名前を忘れてしまった、赤紫色の花を咲かせる樹が、どうもうどん粉病を発症している。新たに出始める新芽のどれもが、薄く粉をふいているのだ。私は指先でそっと新芽を摘む。本当はこんなことしたくないのだが、これ以上病気が広がるのはもっと嫌だ。だから摘む。そして母にメールしてみる。うどん粉病が、と。しばらくして母からメールが返ってくる。石灰を土に混ぜてみるといいかもしれない、とある。よし、近いうちにやってみよう。私はそう決めて、他にうどん粉病にかかっているものはいないかと、目を皿のようにして探してみる。今のところ見当たらない。よかった。一番勢い良く新芽を出しているマリリン・モンローは元気そのもの。そしてミミエデンもベビーロマンティカも、大丈夫そうだ。とりあえず、こちら側の二つのプランターに石灰を混ぜてやることにしよう。ところで何処で石灰は売っているんだか。私は首を傾げる。とりあえずホームセンターに行けば何とかなるだろう。勝手にそう決めて、私は部屋に戻る。 部屋から改めてベランダを見ていると、イフェイオンの葉の茂り具合が目に沁みる。こんなに茂っているのに花芽が出ないのは何故なんだろう。不思議に思う。ムスカリもそうだ。茂るだけ茂って、花が咲く気配がない。今年は咲かないんだろうか。それもまぁありかもしれないが。ちょっと残念では、ある。
待ち合わせた場所でしばらく待っていると、懐かしい彼女がやってくる。彼女と会うのはどのくらいぶりだろう。彼女に聴くと、一年半ぶりくらいかな、と返事が返ってくる。そんなに会っていなかったのかと改めて驚く。彼女とはもっと頻繁に会っているような錯覚がある。 相変わらず細く痩せた体つきをしている彼女は、はきはききびきびと喋る人だ。淀みというものがまるでない。それでいながら、決して侵入してこようとしない人でもある。だからかもしれない、こちらも適度な距離を持ちながら、彼女の話に耳を傾けていることができる。 そういえば、最近恋してないの? と唐突に聴かれ、私は、うん、と応える。彼女に、えぇぇ、と言われ、笑ってしまう。私の知っているあなたはいつでも恋してたわよね、と。確かにそうかもしれない。そんな私が、今全く恋も何もしていないとは。それはそれで不思議といえば不思議だ。でも、まぁ、そうなのだ。恋は、ない。 それにしても。彼女は綺麗になったものだと思う。隣に座っていて、時折、彼女の肩を抱きしめたくなるような衝動に駆られる。私はそもそも彼女のその、生きる姿勢が好きなのだ。いろいろあるんだろうが、それでも、基本、自分のペースを崩さない。自分の身の丈にあった生き方をしているんだな、と、いつ会っても思う。その姿勢に、私は、わが身を振り返らずにはいられなくなる。 その後用事があるという彼女を見送り、私はバスに乗る。バスはゆっくりとかたかた揺れながら、夕闇の町を走ってゆく。
「しかし、一人の人間に何ができるのでしょう?」「真理に道はありません。そしてそれが真理の美しさであり、それが生なのです」「真理が生きたもので、動いており、それは安息所をもたず、寺院やモスク、教会には存在せず、どんな宗教も、どんな教師も、どんな哲学者も、誰も、あなたをそこに連れて行ってくれることはないのだということを理解するとき、あなたはまた、この生きたものがあなたが実際にそうであるところのもの―――あなたの怒り、あなたの冷酷さ、あなたの暴力、あなたの絶望、あなたがその中に生きている苦悩であり、悲しみでもあることを理解するのです。こうしたことすべてを理解することの中に、真理はあります。そしてあなたはそれを、自分の生の中にあるそれらのものを見るすべてを知りさえすれば、理解できるのです。あなたはイデオロギーや、言葉のスクリーンを通して、希望や恐怖を通して、見ることはできないのです」 「ですから、あなたは誰にも頼れないことを知るのです。案内者も教師も、権威もいません。存在するのはあなた―――あなたの他者や世界との関係―――だけであり、他には何もないのです。あなたがこのことを悟るとき、それは大きな絶望を生み出して、そこからシニシズム〔冷笑的な態度・性格〕や苦々しさが生じるか、さもなければ、他の誰でもなくあなたが世界とあなた自身に、あなたが考え、感じること、あなたの行動の仕方に責任があるのだという事実に面と向き合うことになり、そのことによってあらゆる自己憐憫が消え去るでしょう」 「重要なのは人生哲学ではなく、私たちの日々の生活の中で内的外的に実際に生起していることを観察することです」「私たちが扱わなければならないのは存在の全体なのです。そして私たちが世界で起きていることを見るとき、私たちは外部のプロセスも内部のプロセスもないのを理解し始めるのです。あるのは単一のプロセスだけなのです。それは一つの全的、包括的な運動であって、内部の運動がそれ自らを外部に表現し、今度はその外部の運動が内部に反応を生み出すといった性質の、一まとまりの運動なのです。このことを見るすべを身につけるということが、必要とされるすべてである」「誰もあなたに見る方法を教える必要はないのです。ただ見ればいいのです」 「あなたはそのとき、この全体像を見て、言葉の上でではなく実際にそれを見て、無理なく自然に、自分自身を変容させることができるでしょうか?」
娘が朝からDVDを見ながら踊っている。この子は本当に体を動かすことが好きなのだなと思う。彼女の姿を眺めながら、私はわざと、突如立ち上がり、腰を振って両手を振って踊って見せる。呆気にとられた娘は、一瞬の沈黙の後、爆笑する。 彼女は歌ってもいる。しかし。彼女はやっぱり音痴のようで。メロディは完全に彼女の作曲した代物に変わっている。私は苦笑をこらえながら、それを聴いている。母が絶対音感を持っていようと何だろうと、それは遺伝することはないのだな、と、改めて思う今日この頃。まぁ本人が歌うことが楽しいというのが、一番いい。 それじゃぁね、私がそう言って靴を履いていると、娘がココアを連れてやって来る。私が待ってという隙間もなく、娘は私の背中にココアを乗せ、ココアはココアで私の背中を駆け回る。 じゃぁね、それじゃぁね、また後でね。 私は階段を駆け下り、自転車に跨る。公園の前を通るとき、木々を見上げると、赤い新芽の匂いが漂ってきそうだった。霞がかった空、乱反射する陽光。それらはすべて、冬の終わりを告げているかのようだった。 さぁ今日もまた一日が始まる。私は勢い良く、ペダルを踏み込む。 |
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