見つめる日々

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2010年03月01日(月) 
何となく起きたくない気分で目を覚ます。理由は分かっている。昨日をうまく洗い流すことができないまま眠ったからだ。だから目を覚ましたくない。
でもそんなこと言っていたって何も始まらないので起き上がる。溜息をつきそうになって、慌てて止める。溜息までついたら、もっと憂鬱になりそうだ。
足元でゴロが回し車を回している。が、音は全く聴こえてこない。彼女は音もなく、軽やかに回る。私の目の中で回し車が回り、見ている私の目がからからと音を立てている。おはようゴロ。私は声を掛ける。ゴロはぴたりと足を止め、こちらを見る。そしてひょこひょことこちらにやって来る。私は手を出して彼女をそこに乗せる。ゴロは鼻をひくひくさせながら私の手のひらの上、じっとしている。
お湯を沸かし、お茶を入れる。いつものように生姜茶。今日は香りがうまく伝わってこない。口にお茶を含んでみる。ほんのり生姜の味がするような、気がする。味だけでも少し分かってよかった。多分心に余裕がないのだろう。だからこんなにも大事なことが分からないのだろう。私は頭を振って雑念を追い払おうとしてみる。とりあえず振りからでも。やってみなくちゃ始まらない。
テーブルの上、白いレースフラワーと赤いぼんぼんがひっそりと咲いている。私は指でそっと触れてみる。ぱらぱらと落ちてくる花びら。あぁこれもまた終わりなのだと知る。そりゃぁそうか、一ヶ月もここで咲き続けているのだから、もういつ終わってもおかしくはないのだ。お疲れ様、ありがとうね、私は声を掛けてみる。

空が明るくなるのがだんだんと早くなってきている。窓を開けながら、そのことを改めて思う。今朝空気は冷たい。点る灯りは四つ。結ぶとちょうど平行四辺形が描ける。あの灯りのもと、人々は何を営んでいるのだろう。部屋の中はあたたかいのだろうか。
街路樹が街灯の灯りを受け、橙色に輝いている。鈍い光だ。まだ行き交う車は疎ら。街が起き出すにはまだ早い時刻。
ベランダに出て、母から昨日渡された石灰を薔薇のプランターに撒いてみる。うどんこ病にいいそうだ。私は全くそういうことを知らなかった。とりあえず撒くだけでもいいし、土に混ぜ込んでもいいとメモが添えてある。私は、表面の土を少し掘り返し、混ぜ込んでみることにする。
これで完治するとは思わないけれども。それでも、何とか少しでも軽くなればいい、そう思う。せっかくこれからの季節、たくさんの葉を出す頃だというのに、それが全部病葉だったらかわいそうだ。少しでもよくなりますように。
南東の空が徐々に徐々にぬるんできている。でも今朝朝焼けはのぞめそうにない。

「精神が断片化していないときだけ、自分自身の全体を見ることができるのです。全体の中にあなたが見るものが、真実なのです」「トータルに見るとき、あなたは全注意を、あなたの全存在を、あなたのすべて、あなたの目、耳、神経を、それに与えるのです。あなたは完全な自己放棄をもって臨みます。そしてそのとき、恐怖や対立が入り込む余地はありません。従ってそこには何の葛藤もないのです」「もしもあなたが鳥や飛び回る昆虫、木の葉、一人の人間の美しさを、そのすべての複雑さ共々理解したいと思うなら、あなたは自分の全注意(それが気づきです)をそれに捧げねばなりません」「私たちがふだん生きている次元、苦痛と快楽、恐怖に彩られた日々の生活は、精神を条件づけ、その性質に限定を加えてきました。そしてその苦痛、快楽、恐怖が消えてしまうとき(それはあなたがもはや喜びをもたないという意味ではありません。喜びは快楽とは全く異なったものです)、その時精神はどんな葛藤もない、「他otherness」の感覚が全くない、異なった次元で機能するのです」「言葉で説明できるのはここまでです。彼方にあるものは言葉では表現できません。なぜなら、言葉はその事象ではないからです。ここまでは描写し、説明できますが、言葉や説明はそのドアを開くことはできないのです。そのドアを開けてくれるものは、日々の気づきと注意―――自分がどんな話し方をしているか、何を言っているか、どんな歩き方をし、何を考えているか、等々についての気づき―――です」「そのドアを開けてくれるものは、あなたの意志の力や願望ではないのです。あなたはその「彼方にあるものother」を招くことは決してできません。あなたにできるのは部屋をきれいにしておくことだけです。それはそれ自体がよいことだからであり、それがもたらしてくれるであろうもののためではありません。正気で、理性的で、秩序立っていることです。そのときたぶん、もしもあなたが幸運なら、窓が開いてそよ風が入ってくるでしょう。あるいはそうならないかも知れません。それはあなたの精神状態によります。そしてその精神の状態は、あなた自身によってのみ、それを見守り、それを形づくろうとせず、見方をしたり反対したりせず、同意したり正当化したりせず、非難も裁くこともしないことによって―――それはどんな選択もなしに見守るということですが―――理解されるのです。そしてこの選択のない気づきの中で、たぶんドアが開き、葛藤も時間もないその時限がどんなものなのかを、あなたは知るでしょう」

ねぇ、どうして今こんなになっちゃってるんだと思う? わかんない。そうだよねぇ、わかんないよねぇ、ママにも分からない。あなただったらこういうときどうする? 私だったら、もうやだって放る。え、そうなの? うん、やだもん。約束守らない人は嫌い。あぁ、なるほど。でもそれで放っちゃうの? うん、そうする。嫌だもん。なんかどんどん嫌な気分になるじゃん、こっちが悪いわけじゃないのに。そっかぁ。ママは待ち過ぎなんだよ、きっと。それって、人が良すぎるってことだよ。そういうことやってるとさぁ、つけこまれるよっ。えっ、そ、それはそうなんだけど。嫌なものは嫌でいいじゃん。ま、まぁそうなんですが。でもそれで本当にいいの? そのまんまにしとくの? うん、だってこっちが悪いわけじゃないんだから、後は向こうがどうにかすればいい。そうなんだぁ、まぁ、そうかもしれないけど。向こうがどうにかしたら、その時また考えればいいんじゃないの。まぁ、そうかぁ。
私は苦笑しながら彼女とのやりとりに耳を傾けている。彼女の言うことは最もで。でも私はまだ躊躇っていて。でも彼女の言うことによれば、それは私が待ち過ぎているということで。嫌なものは嫌なのだから、ほかっとけばいい、という彼女の言い分は、至極ごもっとものような気がして。でも、それをやるのはやっぱり躊躇われて。
あぁ堂々巡り。でも、娘にこう言われたこと、娘がこう言っていたことは、しっかり覚えておこう。なんだかとてもひっかかることだから。

「交流分析とエゴグラム」を読む。一気に読んでしまった。具体例がたくさん出ていて、それがとても面白い。なるほどなぁと思う。このように活用されているものなのかと改めて知る。
横書きというのは、それだけで、ちょっととっつきにくい。私にとって本は縦書きのものだ。だから、読みづらいところがある。それでも一気に読めてしまったのは、それだけ面白かったからだろう。
犯罪者型、おっかさん型のエゴグラムなども例として出ており、それがちょっと笑えた。なんともまぁ、こんなふうにグラフになってしまうものなのかと不思議な気がする。
低い値を上げる方法も具体例がいろいろ出ていた。なるほど、このようにしてクライアントと共に取り組むのか、と知る。
もう一冊、取り寄せた本があるから、早速読んでみようと思っている。

できることはやった、それでもだめなとき、人はどうするんだろう。諦めるんだろうか。諦めることができればそれに越したことはないんだろう。それでも諦められない、というような葛藤が起こったりするから、厄介なんだと思う。
でも諦めて、次に進む時期なのかもしれない。過去と他人を変えることはできない、と誰かが言っていた。本当にそうだと思う。
自分を変えて対処してみても、それでも同じ結果しかでないのなら、それを置いて次に進むべきなのかもしれない。

ぼんやり考え事をしていたら、あっという間に電車は川を渡るところ。私は慌てて視線を窓の外に向ける。どんよりと曇った空の下、川は浪々と流れてゆく。中央に大きな木の枝が。何処から流れてきたのだろう。そしてここから何処へゆくのだろう。今は川底に引っかかって止まっているようだが、いつどうやって、川はこの木切れを押し流してゆくのだろう。
電車は病院の駅に止まった。人波にもまれながら私も降りる。裸の銀杏並木がそそり立っている。見上げる空は曇天。行き交うバス、車、人、誰もがどこか俯いて歩いている。足早に。
さぁまた一日が始まる。気持ちを切り替えていかないと。


遠藤みちる HOMEMAIL

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