2010年06月10日(木) |
起き上がり、窓を開ける。しっとりとしたぬるい空気が漂っている。ベランダに出て、空を見上げる。昨日の雨雲は何処へ行ったのだろう。きれいに晴れ渡る空。地平線の辺りに漂っている雲が、雨雲の名残だろうか。東から伸びてきた陽光が、雨粒を纏った街路樹を輝かせる。きらきらきら、と、雨粒がそこかしこで輝く。これも多分一瞬のできごと。じきに雨粒はどこかにいなくなってしまうに違いない。 しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを見やる。濡れた土の上、六本の枝葉。ちゃんと生きているだろうか。どうなんだろう。でも、くてんと萎れているものはひとつきり。それ以外はちゃんと葉を伸ばしてる。ということは水を吸い上げているという証拠のはず。デージーは次々に新しい葉を出しており。こちらは大丈夫なんだろう。そう思う。 私はしゃがみこんだまま、ホワイトクリスマスを振り返る。まっすぐに伸びた枝のてっぺん、蕾が凛々と立っている。何者も寄せ付けず、ただ凛々と。なんて気品のある姿なのだろう。気のせいじゃなく、それは眩しくて。私は目を細める。昨日より一層膨らんできたように感じられるその姿。逞しい、というのともまた違う。 マリリン・モンローの蕾も、空に向かって伸びている。どうしてこうも真っ直ぐに伸びるのだろう、蕾たちは。決して疑うことを知らない子供のようだ。そこに光が在る、光が待っている、そのことをただひたすらに信じて伸びてゆくかのよう。彼らは絶望を前にして屈してしまうということがないんだろうか。絶望しようと何だろうと、こうして立ち上がってみせるのだろうか。 ベビーロマンティカの蕾も、柔らかな色合いでもって、天に向かって伸び始めている。ホワイトクリスマスが気品のある姿、マリリン・モンローが逞しい姿、だとしたら、ベビーロマンティカのそれは、いかにも楽しげな、笑い声が今にも零れてきそうな雰囲気をしている。楽しくて楽しくて仕方がない、生きることはこんなにも楽しい、と、いわんばかりの雰囲気。 パスカリたちは沈黙している。私はパスカリの花が好きだ。涼やかな、これといって華があるわけでもないけれど、洗い立ての洗濯物のような、そんな姿のパスカリの花が好きだ。だからずっと待っている。花芽が出るのを。花なんて咲かなくても生きていてくれればいいよといいながら、それでも待ってる自分がいる。 まるで魔の一日だった。越えるのが本当にしんどかった。ぱっくり開いた傷口から漏れ出る血はやはり赤く、でももはやそれは私を、安心させる代物ではなかった。 逆に、私を自己嫌悪に陥らせた。何をしているんだろう、私は。一体何をしているんだろう。私を見下ろすところから、もう一人の私が言っていた。私は私の体を離れ、私を見下ろし、言っていた。何をしてるの、一体。 いくら切っても足りなかった。足りない足りない、と、誰かが言っていた。こんなんで足りるものか、切ったって切ったって足りないのだ、と、誰かが言っていた。 同時に、いくら切ったって足りないのなら、切るだけ無駄じゃないか、とも誰かが言っていた。突き放した、冷たい声だった。でも、それは本当のことだと思った。 切って切って、何とかなるなら、いくら切ったっていいかもしれない。でも、切ったって切ったって足りないのなら、切るだけ無駄じゃぁないか。 でも。 赦せなかった。自分を滅茶苦茶にしたかった。もうすべて荷をおろしてしまいたかった。無責任になりたかった。 ぱっくりと口を開ける傷口は、肉の層を露に私に見せつけた。さんざん切り刻んできた腕は、そうやすやすと壊れるものでもなかった。私に見せ付けるだけ見せ付けて、嘲笑っているかのようだった。おまえなんかに壊せるものか、と、まるでそう言っているかのようだった。私の弱小さを、さらに思い知らせてくるかのようだった。 切り刻む隙間が、気づけばもうなくなっていた。机の上、血だまりが残った。それを掃除するのも馬鹿らしくて、私はしばらくそのままでいた。 私の頭上で私の声が響いていた。結局何を得た? 何も得るものなどなかっただろうが。一体お前は何をした? そうすることで何を失うのか、おまえは分かっているはずだろうが?! 眩暈がした。私が私の中に納まってくれない。私の内と外とで、ぎゃんぎゃんそれぞれに喚いている。好き勝手に喚いている。私は耳を塞ぎたかった。でも、耳を塞ぐ余力も、なかった。 結局。傷跡だけが残った。私の内奥で蠢くものはそのまま残り、私の腕に、傷跡だけが残った。
生きるしか、ないんだよな、と思う。別に死のうと思ったわけじゃない。ただ、自分が存在していることが赦せなくて赦せなくて赦せなくて、たまらなかった。自分を滅多切りにして、消えてなくなりたかった。ただそれだけだった。 でも、そんなこと、現実にできるわけもなく。 分かっていたはずだった。そんなこと、もう十二分に分かっていたはずだった。なのにまた、繰り返してしまった。 苦味のある虚しさが、残った。
私の腕の傷に気づいてはいない娘が、明るく尋ねてくる。ねぇママ、土曜日さ、父親参観日なんだよね。どうする? どうしよっか。今年も欠席するか。先生はちゃんと出なさいって言ってたけど。どうする? どうしたい? 別にどうでもいい。じゃぁ、欠席しようか。うん、そうだね。
傷を隠していても、布の下、ぱっくりと割れた傷口から血が漏れ出し、染み出してくる。そのたび私は着替える。じきにこの血も止まるだろう。今は熱を持っている傷口も、やがておさまるだろう。 そしてまた、日常が始まる。はず。
ちょっと道を逸れただけだ。大丈夫、いくらでも修正はきく。大波をだぶんと頭から被ったようなものだ。大丈夫、大丈夫、何とかなる。 しばらくすれば、またやっちゃったよ、と笑えるようになる。そうしてまた、歩き始めればいい。
お湯を沸かし、お茶を入れる。生姜茶を入れてみるのだが、全く味が分からない。というより、生姜茶の味に感じられない。全く別物のお茶を飲んでいるかのような気がする。迷った挙句、それは水筒に入れ、レモンティーを作り直すことにする。レモンティーくらいはっきりした味なら、さすがの私も分かるだろう。 開け放した窓の外、陽光が燦々と降り注ぐ。火をつけた煙草を胸いっぱいに吸い込む。さぁ朝の仕事に取り掛かろう。
「私たちにとって困難なことは、外部の挑戦に対して適切に、つまり完全に対応することなのです。問題は常に物や人間や観念との関係の問題なのです。それ以上に問題はないのです。そしてこの関係の問題―――それは絶えず多様に変化する要求を伴っています―――に正しく、かつ適切に対応するためには、私たちは受動的に凝視していなければなりません。この受動性は決意や訓練の問題ではありません。まず私たちが受動的ではないことを自覚することが出発点なのです。私たちがある特定の問題に対して、特定の解答を期待していることを知ることがその第一歩なのです。私たちとその問題との関係や、私たちのその問題の処理の方法を知ることが始まりなのです。そしてその問題との関係の中で自分自身を知り始めたとき、つまりその問題に対応している過程で、私たちがどのように反応するか、あるいは私たちの偏見や欲求や追求しているものがどのようなものなのかを知り始めたとき、この自覚が私たちの思考の過程や、私たちの内部の本質を開示することになるのです。そしてそこに解放が生まれるのです」 「重要なことは、選択せずに凝視することなのです」「重要なのは次の点です。凝視することによって生まれた経験を記憶の中に蓄積せずに、一瞬一瞬常に注意深く見つめ続けていけることです」
もう同じ間違いを、繰り返さないで済むだろうか。繰り返したくないと思う。まだ私は、私の頭上と私の内側とで、分離したままだけれど、それもまぁ、じきに融合してくれるだろう。時間が解決してくれるに違いない。 今はしんどくても、そう、じきに、じきになんとかなる。そう信じよう。
じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。私は階段を駆け下り、自転車へ。 坂を下り、信号を渡って公園へ。紫陽花の咲き誇る公園。水色のその色合いは、まるで雨を呼んでいるかのようで。 池の端に立つと、頭上から燦々と降り注ぐ陽光。まるで、おまえがどんな代物であろうと、私は構わないよと言われているかのようで。目尻に涙が滲む。 大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木が陽光を受け輝いている。私はそのまままっすぐ走り続ける。モミジフウの脇を通り抜け、さらに走り、海へ。 緑がかった紺色の海。堤防に当たって弾ける波は白く。 また、ここからだ。私は自分に言い聞かせる。何度でもやり直せばいい、私はまたここから、やり直す。歩き出す。ただそれだけだ。 さぁ、今日もまた、一日が始まる。 |
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