見つめる日々

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2010年06月08日(火) 
起き上がり、窓を開ける。ベランダに出て空を見上げれば、一面に雲が広がっており。もこもことした雲は鼠色で、雨が降ってきてもおかしくはない様子。微かな風がそろそろと流れている。街路樹の葉を揺らすわけでもなく、そろそろ、と。私は櫛で髪を梳き、後ろひとつに束ねる。
昨日はそんな、当たり前のことさえできなかった。何を見ても色が失われ、輪郭さえ定かではなく。どこまで堕ちればとまるんだろう、という具合だった。すべてが上滑りしていた。いや、その記憶さえ定かではなく。ところどころしか覚えていない。ただひたすらに、消えてなくなりたい、という気持ちだけが、在った。
気を張っていないと、いつまた自分の腕にナイフをつきつけるか分からなかった。そんなことをしたって何の解決にもならないことが分かっているのに、私はそれでも切りたかった。切って切って切って、木っ端微塵にしたかった。どうにかして、自分を消去したかった。
でも私は今こうしてここに在て。生きている。ちゃんと生きてる。
しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。土が少し乾いてきている。そろそろ水を遣る時期か。でも。見上げる空はいつ雨が降ってきてもおかしくはない具合。帰ってきてからどうするか決めよう。私は土の表面を指で撫ぜながら思う。
ホワイトクリスマスの蕾は、ついこの間まで葉と葉の間に隠れていたのに、今はもう、頭一つ分、飛び出している。凛と天を向いて立つその姿。美しい。何て美しいんだろう。それはまるで、光を信じてやまない者の姿のようで。私はその姿が眩しくて、思わず目を細める。こんなふうに立っていられたら。憧れさえ、抱く。
マリリン・モンローの新芽たち。今のところ花芽は見られない。今はぐいぐいと枝葉を伸ばす時期なのだなと思う。こんなに茂ってどうするんだろうと思わず笑ってしまうほど、勢いがいい。まるでこちらを励ますかのようで。
ベビーロマンティカの葉と葉の間に花芽を二つ、見つける。ついこの間花を咲かせたばかりだというのに、大丈夫だろうか。でも嬉しい。また花を見ることができる。それが嬉しい。また、新しい場所からも新芽が噴き出ており。萌黄色の柔らかな柔らかな芽。
パスカリは、また葉に白い粉をつけ始め。私はそれをひとつずつ、そっと摘む。摘みながら、私はここ数日のことを考えている。
はっきりと、何があった、というわけではない。明確なきっかけがあったわけじゃぁない。ただ、いろんなものが積み重なって、私は疲れていた。憂鬱がぐわーんと、私を呑みこんでいた。ひとりでじっとしていると、勝手に涙が零れた。ぽろぽろ、ぽろぽろ、と、涙が零れた。すべてから逃げ出して、消えてなくなりたかった。
でも。それができないことも、分かっていた。
心の奥底で、私は生きなければならない、ということが、ありありと横たわっていた。
何とかして、言葉にしてみようとも思った。言葉に吐き出せば、何とかなるんじゃないか、それだけでも少しは楽になるんじゃないか、そう思った。なのに、全く言葉が出てこない、これっぽっちも出てこない。
行き場が、なかった。
彷徨って彷徨って、辿り着いたのは家だった。
どこをどう歩いて帰って来たのか、はっきりいって覚えていない。覚えていないが、気づけば私は家にいた。そしてそこには、娘がいた。
あぁだめだ、娘を残してはいけない。この、生の塊を放ってはいけない。
私はトイレで、泣いてみた。泣けるだけ泣いてみた。何が悲しいのか、何が辛いのか、もうよく分からなかった。分からないけど、泣けるだけ泣いた。
体が、疲れていると言っていた。もう倒れ込みたいと言っていた。それを無視して夕飯を作り、後片付けをし、仕事をし、そうしてやっと横になった。
横になってみると、どれほど疲れているのかが体の実感として感じられた。
私の内奥で誰かが言っている。頑張れ、もっと頑張れ、頑張れ、もっと頑張れ。
その声を聴きながら、私は眠った。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。いつもの風景。何ら変わらない、いつもの動作。でも、今日もまたこうできることに、今は感謝する。
とりあえず私は朝の仕事に取り掛かる。できることをひとつずつやっていけばいい。今はもうただ、それだけ。

ママ、大丈夫? うん、大丈夫。大丈夫じゃなさそうだけどなー。うん、でも、もう大丈夫。ちょっと疲れてるだけ、くらいだよ。ふーん。じゃぁいっぺんで治る方法してあげようか。何。ちゅーだよ、ちゅー。ははは。じゃぁほっぺにして。うん、ちゅー! ありがとねー。少しは元気出た? うん、出た。明日には元気になるよ。ウンウン。

私は何て弱いんだろう。つくづく思った。弱い、弱すぎる。これっぽっちのことでこんなにぐでんぐでんになるなんて。
よく覚えておこうと思う。こんなにぐでんぐでんになる自分の事を、よく覚えておこうと思う。そして、繰り返さないよう、心に刻んでおこうと思う。

「自分自身に対する認識は、自他の関係の行為の中ではっきりと試すことができるのです。それは私たちの話し方やふるまいによって試すことができるのです。ですからあなたを他のものと同一化したり、比較したり、批判したりしないで、あなた自身を注意深く見詰めてごらんなさい。じっと見詰めているだけで良いのです。そのときあなたは驚くべきことが起こっていることに気づくでしょう。そのときあなたは無意識的な行為を終息させるばかりではなく―――というのは私たちの行為の大部分は無意識的なものだからです―――そのうえに、研究したり掘り下げたりせずに、それらの行為の動機を知ることもできるのです」「私たちが対象を批判せずに、それを尊重し、注意深く見守るならば、その行為の真の意味が自ずと現れてくるのです」「正当化しようという意図をもたずに、ただじっと見詰めるのです。これは随分消極的なことのように思われるかもしれませんが、決してそうではありません。その反対に、それはそれ自体直接的な行為であり、しかも一種の受動性をもつものなのです」「もしあなたが何かを理解したいと思うなら、あなたの精神は受動的になっていなければなりません。あなたはその対象についてあれこれ考えを巡らしたり、推測したり、質問したりしてはいけないのです。あなたはその対象の真意を理解できるほど感覚が鋭敏でなければなりません。たとえて言えば、それは写真の感光板のようでなければいけないのです。もし「私」が「あなた」を理解したいと思うなら、「私」は受動的に見つめていなければならないのです。そうすると「あなた」の方で自然にあなたの素性を語りかけてくるのです」

まだ浮上しきれてはいないけれど。少なくとも、地面がどこにあるかは、ちゃんと感じられる。私はその上を、歩いてる。
こういうことがまた、起こるのかもしれない。そうだとしても、
私はやっぱり、生きていくしかないんだろう。

振り出した雨に構わず、自転車に跨る。坂道を駆け下り、信号を渡り、公園へ。
池にもぽつぽつと、雨粒の跡。幾つもの波紋が生まれている。
紫陽花の茂みは、まるで雨を恋しがっているかのように、天へ天へと花が向いており。その数はもう、夥しいほどで。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木の脇を通って、真っ直ぐ海の方へ。暗い暗い紺色の海が広がっており。ばしゃんばしゃんと打ち付ける波飛沫の色がくっきりと映えわたっている。
さぁ、今日という一日が、始まってゆく。
私は自転車に再び跨り、勢いよく走り出す。


遠藤みちる HOMEMAIL

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