2010年06月06日(日) |
最近夢と現実との境が曖昧になっている。今朝も夢から現実への移行が難しかった。戸惑って、確かめて、何度も確かめて、ようやくさっきまでのことが夢で、今ここに在ることが現実なのだと納得する。時間にすればそれは数分かもしれないが、それはとても頼りなくて、足元が酷く頼りなくて、不安になる。 窓を開ける。もうすっかり空気はあたたまっており。私はあたたかいというよりもむしろ、暑いと感じる。私はやっぱり、朝のあの、ひんやりとした感触が好きだ。体がきゅっと引き締まるような、ひんやりとした感触が。 ベランダに出て通りを見やる。まだ誰の姿もない。陽射しだけが東から燦々と降り注いでいる。私は大きく伸びをして、空を見上げる。空に雲もほとんどなく、晴れ渡っている。あぁ今日は洗濯日和だ、そんなことを思う。 しゃがみこんでラヴェンダーのプランターを覗き込む。ラヴェンダーの枝の、古い葉はみな、くてんと萎れている。新しい葉はこぞって空を向いている。この違いは何なんだろう。古い葉にはそんなにも、水を吸い上げる力が足りていないのだろうか。それともこれが自然なのだろうか。同じプランターの中、デージーはみな、生き生きと育っている。こんなことを思うのもどうかと思うが、なんだか、ラヴェンダーとデージーとを見ていると、デージーが憎たらしく思えてくることがある。なんでこんなにも勢いが違うのだろう。悲しくなってくる。 挿し木ばかりを集めた小さなプランターの中を覗く。一本の枝から、今次々紅い縁を持った新芽が芽吹いているところ。長い間うんともすんとも言わなかった枝。これまでエネルギーを内に貯めていたんだろうか。いきなりあちこちから葉を出し始めた。他にも、新芽の徴を抱いているものたちが大勢いるのだが、これがそのまま立ち枯れてしまうこともあるから、油断はならない。まだまだ枝は根を出しているわけではないだろうから。いや、葉を出したって、開いた葉がそのまま枯れてゆくことだってある。私にできることは、ただ待つことだけ。信じて待つこと、それだけ。 ホワイトクリスマスの新芽。その中から一つの花芽。昨日よりぐっと表に現れてきた。若い緑色をしている。他の新芽の間も見てみるが、今のところこれ以外に花芽は見つからない。今流れてくる微風を受けながら、凛としてそこに在るホワイトクリスマス。 マリリン・モンローの、根元からぐいと出てきた枝葉は、まさにまっすぐに天に向かって伸びており。もはや何者も受け付けないといった雰囲気を私は感じる。誰に何を言われても、誰にどう遮られても構うものか、私は伸びる、というような意志が漲っている。私は半ば圧倒されながら、その枝をじっと見つめる。触れることさえ赦されない、そんな気がする。 ベビーロマンティカの新芽は、まるで小さな笑い声をともなってそこに在るかのようで。耳を澄ましたらその笑い声が木霊してきそうな気がする。カミーユ・クローデルの作品に、確かおしゃべりをする女たちというものがあった、あの彫刻を思い出させる。 ミミエデンからも新芽が次々噴き出そうとしており。あの時枝を挿して本当によかった、と思う。果たして花をつけるほどになってくれるのか。分からない。分からないけれど。一輪でもいい、いつか、あの花が見たい。 パスカリの一本の新芽はやはり、粉を噴き始め。私はそれを、つけ根から摘むことにする。ごめんね、と小さく呟きながら摘む。せっかく開いた大きな葉が、私の手のひらの上、震えている。 何だろう、突然涙が零れた。これといって理由があるわけでもない。何があった、という、そういうはっきりしたものが在るわけでもなかった。でも、涙がぽろり、零れた。 私の人生を、決めつけないでほしい。そう思った。どうしてみんな、勝手に決めつけるんだろう、あなたは絶対こうなるわよ、こうならなきゃおかしいわよ、こうなるに決まってるわよ。いとも簡単に、みながそう言ってのける。 そんなもの社交辞令と受け流せばいいのだろうが、私は昔を思い出す。幼い頃を思い出す。そうやって周囲の人たちすべてから言われ、私はいつも、潰れそうだった。いっそのこと、潰れてしまえば楽だったのかもしれない。でも、潰れることは赦されなかった。潰れたら、今度は冷たい視線が待っている。冷たい沈黙が待っている。耐えられなかった。 どうしてみな、私がデキルのが当たり前だと言うんだろう。当たり前って何なんだろう。いつも思ってた。どうしてそんなこと言えるんだろう、と。 私はデキルのが当たり前で、デキナイことは論外だった。たった一歩、たった一足、間違えただけで、顰蹙を買った。冷たい視線、冷たい言葉、手のひらを返したような態度がそこに待っていた。いつでも私は、模範にならなければならない子供だった。 今また、そのヴィジョンが繰り返されている。こんな歳になってまで、そんなものに囚われている。それが、私には、しんどい。 そんなもの跳ね除けて、関係ないよと笑って、過ごせたらどんなにいいだろう。そう思う。他人の目など、他人の言葉など、関係ないよと笑ってやり過ごせたら、私はどんなに楽なんだろう、と思う。思うのに、自由になれない。囚われてしまう。恐怖を感じてしまう。ここから外れたとき、私は一体どうなるんだろうと考えてしまう。怖くて怖くて、夜も眠れなくなる。 私は私だ、と、胸を張って、笑っていられたらいい。そう思うのに。それができない。それができない自分が一番、悔しい。 いっそもう、人の間にいることをやめてしまおうか、とさえ思う。そうしたら私は、楽に慣れるのかもしれないなんてことさえ思う。でも私は人間で。人の間で生きる存在で。そして私の耳は、過敏だ。そういうことに、酷く過敏だ。 人の言葉が痛い。あなたができるのは当たり前よ、あなたならできるに決まってるわよ、あなたなら、あなたなら、あなたなら。 何が当たり前なんだ? 何が決まってるんだ? 何も当たり前なんかないじゃないか。何も決まってなんかないじゃないか。私はそんな、あなたたちが思っているような人間じゃぁない。 じゃぁどういう人間なんだ? そう、これっぽっちの、弱い弱い、どうしようもない人間で。あなたの無邪気な、他愛ない言葉に、敏感に反応して怯えるような、そういう小さな人間で。期待されても、私はそんな、応えられない。 あなたなら何があってもそれを乗り越えていく力があると信じていたわ、あなたならどんな困難にも打ち克って切り開いていくに決まっているわ。そうした言葉は、本来、決して否定的な意味で言われている言葉じゃない。そんなこと分かってる。そんなこと、十分すぎるほど分かってる。分かってるけれど。 辛いのだ。しんどいのだ。怖いのだ。私は。あなたなら、あなたなら、あなたなら。そう言われるのがどうしようもなく怖いのだ。 どんなに期待されても、どんなに思われても、私には限界があって。できることとできないこととがあって。いや、むしろ、出来ないことの方が多くて。私はまさに、これっぽっちの人間で。 私だって泣く。悲しくて泣く。どうしようもなくて泣く。むしろ、私は泣き虫だ。今だって涙が零れそうになってる。思い出すだけで、涙が零れてきてしまう。 私にこれ以上、ハードルを作らないで。ハードルを高くしないで。これ以上私を、追い詰めないで。そう、心が叫んでる。 同時に思い出すのだ。弟が言ってた。何も期待されないことの悲しさって、姉貴、分かるか、と。そのことを、思い出す。弟のしんどさ、辛さ、虚しさを、思い出す。思い出して、私は沈黙する。もう、沈黙するしか、なくなる。 自分は贅沢だと、思う。 だから、背負っていかなければならないと思う。笑って、受け流して、黙々と、歩いていかなければと思う。 黙々と、歩いて。
友人に言われたことがある。私に何も期待してないって、そう言われて、悲しかった、と。 でも、期待するとか、あなたなら、とか、そういう言葉を吐いてしまうことが、いや、そもそもそういう思いを抱いてしまうこと自体が、私には、辛いのだ。罪にさえ感じられる。自分がこんなふうに、もう声を上げられないほど、それに押し潰されてきたから。 何も期待しない、というのは、信じていない、ということではなくて、信じているから、あなたを丸ごと信じているから、あなたが何をしても、何を言っても、どんな選択をしても、それはあなたなのだから、そのまま受け止める、という意味だった。 今また彼女のその言葉を思い出す。そして弟のことも。 俺が親に期待も何もされず、無視されて、どれほど辛かったか、しんどかったか、悲しかったか、姉貴、分かるか、と。 多分。多分、私には、その痛みを本当の意味では、理解できないんだと思う。悲しいかな、多分、彼女や弟のようには、感じられていないんだと思う。 本当に申し訳なく思う。 だから、私は歩いていかなきゃならないと思う。どんなにしんどくても何でも、歩き続けていかなきゃならないと思う。
「たとえば私が橋とか家を作りたいとします。私はその技術を知っていて、その技術がその作り方を私に指示してくれます。私たちは普通これを行為と呼んでいるのです。行為には、詩を作ったり、絵を描いたりする行為、国家の責任ある行為や、社会的あるいは環境上の反応による行為などがあります。これらはすべて観念、すなわち過去の経験に基づいていて、それが行為を形作ってゆきます。しかし、観念形成がないとき、行為は果たして存在するでしょうか。 確かにそのような行為は、観念が止んだときに生まれてきます。そして愛があるときにのみ、観念は終焉するのです。愛は記憶ではありません。また経験でもありません。愛は、愛している相手について考えることではないのです。なぜなら、もしそうであるとすれば、愛は単なる考えに過ぎないからです。あなたは愛そのものについて考えることはできません。あなたが信奉する導師や、神仏の彫像、あるいはあなたの妻または夫のような、あなたが愛していたり傾倒している人のことを考えることはできます。しかし思考やシンボルは真実でも愛でもないのです。従って愛は経験ではないということになります。 愛があるときに行為があるのではないでしょうか。しかもその行為は私たちを自由にするのではないでしょうか。それは精神作用の結果ではありません。また観念と行為の間にあるギャップは、愛と行為の間にはないのです。観念は常に古く、その影を現在の上に投げかけています。そして私たちは行為と観念の間に、絶えず橋渡しをしようとしているのです。愛があるときに―――この愛は精神作用でもなく、観念形成でもなく、記憶でもなく、経験や鍛錬でもありません―――この愛そのものが行為なのです。それこそ私たちを解放してくれる唯一のものなのです」
玄関を出ると、校庭は光の洪水で。幾つもの足跡がまるで光の中踊っているようで。私は思わず手を翳す。 自転車に跨り、坂道を真っ直ぐに駆け下りる。信号を渡り、公園へ。鬱蒼とした緑の茂みはもう、緑というよりも暗い影にさえ見える。紫陽花は今満開で、だんだんと首を重たげに傾げ始めた。ブランコの周りに鳩が集っている。躑躅の茂みから猫が現れ、大きく伸びをして、ベンチの脇、横たわる。 大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏の枝葉がまっすぐに天を向いて伸びている。茂る葉はさやさやと風に揺れ、まるで歌を唄っているかのよう。 このまま海まで走ろう。海が何か私に語ってくれるわけでも何でもないけれど。でも、海は間違いなく、ただ黙って、そこに在てくれるだろう。 さぁ、今日も一日がまた、始まる。 |
|