2010年06月05日(土) |
起き上がり、窓を開ける。ちょうどよい感じの風が流れている。そう、吹いているのではなく、流れている。私はその風を感じながら、ベランダに出る。明るい陽射しが東から伸びてきている。トタン屋根がちょうどその陽射しを浴びて、きらきらと輝いている。通りを行き交う人も車もまだない。在るのは陽射しと風と緑と。そして私。 街路樹の緑は小さく小さく、時折揺れている。このくらいの風にならびくともしないほど葉が厚くなってきた証拠だ。ほんの少し前まで、まだまだ葉は小さくて、軽くて、か弱くて、少しの風にもさやさやと揺れていたのに。ふと気配を感じ横を見ると、電線に烏がとまっている。あぁそうか、今日もゴミの日だ。私は烏を見て思い出す。烏の目はもうすでにゴミ集積場所に向いており。私もそこを見下ろせば、もう幾つものゴミが並んでいる。正直言えば、私も時折夜のうちにゴミを出すことがある。朝早く出かけなければならないときなど、そうすることがある。だから何も言えない。言えないが、でもこうして、人が起きる前から動き出している烏を見てしまうと、何とも言えない気分になる。とりあえず夏の間だけでも、ちゃんとゴミを出す時間を守らねば、と自分に約束する。 しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。一本がどうにもこうにも、葉をくてんと萎れさせており。私は心配になる。これは一番つけ根だった部分だ。つまり、去年挿し木した古い古い枝の部分ということ。他の、新しく伸びたところを切り分けて挿したものは、多分、エネルギーをいっぱいもっているんだろう、ぐいぐい水を吸い上げてくれる。でもこの、古いものは、どうももう、エネルギー切れの様子で。大丈夫だろうか。私があの時気づいて幼虫を排除してやっていれば、おまえは今頃、ちゃんと根も伸ばして、葉も伸ばして、しゃんと立っていられたんだろうに。後悔しても始まらないことは分かっているのだが、私はつい、唇を噛む。おまえは再び根を出してくれるんだろうか。出して欲しい。出して、もう一度立ってほしい。私は祈るように思う。 デージーは細っこい枝葉をくいくいと伸ばしており。植え替えてからの方が元気に見える。こうした様子を見ていると、母が笑っているように思える。ほら言ったじゃない、デージーなんて強いから放っておいても大丈夫なのよ、と。優先順位をちゃんとつけなさい、それを見極めなきゃだめなのよ、と。言われている気がする。 ホワイトクリスマスの新芽は、まっすぐ天を向いて伸びてきている。その中に、ひとつ、花芽を見つけた。まだ本当に小さい、私の小指の先ほどもない、小さな小さなものだけれども、確かに葉と葉の間に在る。ちょこっとだけ顔を出している。あぁよかった、この樹もまだ、花をつけられるほど元気なんだ。それが分かって私は心底嬉しくなる。 マリリン・モンローの紅い新芽。本当にあっちこっちから芽吹いている。昨日のうちにまた新しく顔を出し始めたものも在る。こんなにいっぺんに次々芽吹かせて、大丈夫なんだろうか。私はちょっとだけ心配になる。それは、そう、ちょっとだけ。マリリン・モンローには申し訳ないけれども、何故だろう、あなたはちゃんと、また次も花を咲かせてくれる気がする。私は勝手にそう、信じている。 ベビーロマンティカの萌黄色の新芽。前へ前へと伸びてくる。それはまるでさらなる陽射しを求めて、張り出してきているかのようで。ふと、大昔にやった理科の実験を思い出す。光合成の実験。じゃがいもの葉っぱを使ってやったっけ。今ベビーロマンティカの葉の中でも、その光合成やら何やらが行なわれているんだろうか。こんな薄っぺらい、爪を立てたら容易に折れてしまうような葉であっても、これが薔薇の樹の命を繋いでいる。不思議だ。命の塊が今目の前にあるということ。今この時も、呼吸して、生きているということ。その当たり前のことに、私はやっぱり、ふとしたとき、立ち止まらずにはいられなくなる。 パスカリたちの葉はもう赤い縁取りもなくなって、緑の葉に変わった。今ぐるり樹を見回してみるけれども、新しい紅い徴は見えない。また一呼吸置いているんだろうか。私はじっと樹たちを見つめる。ベランダの右側と左側、ただそれだけの位置の違いなのに、新芽の萌え出る速度の何と違うことか。土も同じ、日当たりだってほぼ同じ。風の吹き具合だって同じはず。違うものは何なんだろう。 昨日の授業でやったことを、頭の中、反芻する。積極技法のうちのフィードバック。それに焦点を当てた実習授業だった。やってみるまで分からなかったが、フィードバックというものは結構危険をともなうものなのだなと実感した。或る程度冷静な時なら、カウンセラーのフィードバックに耳を傾けることもできるだろう。でも。切羽詰っているとき、そんなもの、クライアントにとって役に立つんだろうか。そんなこともう分かっている、そんなことどうだっていい、そんなことに耳を傾けている余裕すらないからここに今在るんじゃないか、と、私だったら思うかもしれない。そう感じた。そう考えると、カウンセラーがクライアントをどれだけ観察しているか、ということが、やはり大切なのだなと思った。クライアントと信頼関係を結んだ上で、どれほど観察し、タイミングよくフィードバックできるか。そういうことなんだろう。そう、タイミングが悪ければ、何の意味も為さなくなる。それどころか、クライアントとの信頼関係を崩しかねない。 この勉強を終えた後のことを考える。これらの勉強をすべて終えた後、私はどうするんだろう。もうすでに、それを考えているクラスメイトもいる。そうした方々を見ながら、私はそこまで今まだ自分が固まっていないことを実感する。うまくいえないが、人を預かる、いや、命を預かる仕事といってもいい。それに対して、私はちゃんと向き合っていけるんだろうか。そのことを、考えてしまう。 自分を省みて、あのカウンセリングを受けてよかったな、という体験がほとんどない。あのカウンセラーについていきたい、と思えたことが、正直、ない。私にとってあの時期越えてこれたのは、あの主治医がいたからだ、と今でも思っている。主治医は医者としての指示だけでなく、私のカウンセラーでもあった。本来診察時間は五分十分なのに、あの主治医は三十分、一時間、と、必要ならしっかり時間を割いて話を聴いてくれた。患者と向き合ってくれた。ああした体験がなければ、私はあの時期を、越えてこれなかった。つくづく思う。だから、私にとって、理想のカウンセラー像というものが、はっきりいって、ない。私にとって浮かぶのは、あの主治医の姿だけだ。 そんな私が、果たして、この仕事に関わっていいものなのか。もちろん、理想像がちゃんと描けていればいいというわけでもないだろう。それは分かっている。でも、何だろう、なるのであれば、クライアントに寄り添える、ちゃんと耳を傾けられるカウンセラーになりたい。でも、じゃぁ私は今、それになれるだけの力を持っているのか。そう考えると。足が止まってしまう。 クラスメイトの、今後自分たちはどうするか、どうしたいかの話を聴きながら、だから私は心の中、少し羨ましく思っている。そんなふうに真っ直ぐにそこに向かっていけること、羨ましいと思う。 私はそこまで、自分をまだ、信じきれていない。多分、そういうことなんだと思う。
突然連絡が取れなくなった友人がいる。或る日突然、だ。約束を交わし、その日、友人は現れなかった。それから毎日連絡をしているが、全く連絡が取れない。私に対して何か思うことがあって連絡を断っているのであれば構わない。でも、もしも、もしも友人の身に何か起きたのであれば。 そう思うと、いてもたってもいられない気持ちになる。だからって何ができるわけでもない。もちろんそれも分かっている。 心の中、じだんだを踏みながら、私は今日も友人の留守電にメッセージを残す。連絡待ってます。 何もないならいい。何となく気分で約束を放り出したのなら、それでいい。何事も起きていないのなら、それでいい。 何事もないことを祈りながら、私はメッセージを残す。連絡、待ってます。
友人が言う。片っ端から自分が覚えている友人の名前を挙げてみるんだよ、と。言われて気づいた。私はほとんど、名前というものを覚えていない。 あまりにいろんなものが、途中で断絶されてきた。中学も高校も大学も、そしてその後も。事件の前まで持っていた住所録は、事件の後しばらくして、すべて焼き捨てた。だから、住所どころか、名前さえ、もう覚えていない。 あぁ本当に、あの事件で、私は変わってしまったのだな、と思う。 根無し草。そんな言葉がふと浮かぶ。 私が立っているのは一体何処なんだろう。 誰の記憶にも残らず。誰の心にも残らず。私はひとり、死んでゆくのかと思ったら、ちょっと悲しくなった。悲しくなって、小さく笑った。
「たとえあなたが醜くても美しくても、また意地悪で罪作りな人間であっても、そのあるがままの自分を理解することが、「徳」―――真価―――の始まりです。この「徳」こそ、私たちにとって欠くことができないものなのです。なぜならこの「徳」によって私たちは、自由を与えられるからです。あなたが真理を見い出し、本当の生活ができるのは、kの「徳」の中だけです。しかもそれは、一般に「徳をつむ」というような意味でのつんだ徳では駄目なのです。そのような徳からは、いわゆる尊敬は生まれるでしょうが、理解と自由は決して出てこないのです。「徳」をもつことと、「徳」をつもうとすることとは違うのです。「徳」はあるがままのものを正確に理解することから生まれてくるのですが、「徳」をつもうとすることは、あるがままのものを理解することを先に引き延ばすことであり、あるがままのものを、こうありたいと思っているものによって糊塗しているだけのことなのです。従って、「徳」をつもうとしていて、実際はあるがままのものから直接に行動することを避けているのです。しかも理想に向かって努力することによって、あるがままのものを回避していること自体が「徳」であると一般には考えられているのです。しかし、もしあなたがそれを詳細に、じかに見るなら、それが本当の「徳」とは何の関係もないことが分かるはずです。理想を求めるということは、実は、あるがままのものに面と向かい合うのを引き延ばしているだけなのです。「徳」というのは、自分自身と違ったものになることではないのです。「徳」はあるがままのものを理解することであり、それによって同時にあるがままのものから自由になることなのです。現在のように休息に分解してゆく社会では、このような「徳」は欠かすことができないものなのです。古い世界からはっきり訣別した新しい世界や社会を創造するためには、「発見するための自由」がなければなりません。そして、自由が存在するためには、この「徳」がなければならないのです。というのは、「徳」がなければ自由もないからです」 「真の実在というものは、あるがままのものを理解するときにのみ、発見できるのです。しかもあるがままのものを理解するには、あるがままのものに対する恐れから解放されていなければならないのです」「あるがままのものというのは、あなたが現実に、一瞬一瞬、行為し、考え、感じていることなのです」「もし私が誰かを理解したいと思うのなら、私はその人を非難してはいけないのです。私はその人を観察し、学ばなければなりません。私が学んでいる対象そのものを愛さなければなりません」「あるがままのものを理解するには、自己と対象を重ね合わせて同一化することもなく、非難もしない精神状態、言いかえれば、機敏であって、しかも受動的な精神を必要とするのです」「自己を理解するというのは、一つの結論を得たり、目的地に達したりするようなものではありません。それは関係という鏡―――「私」と財産や、物や、人間や、観念との関係を鏡にして、そこに映った「私」の姿を刻々に観察することにほかならないのです」
じゃぁね、それじゃあね、手を振って別れる。娘はバス停へ。私は自転車へ。メール頂戴ね、という娘の声にもう一度手を振って応えながら、私は走り出す。 坂道を下り、通りを渡って公園へ。さっきまで燦々と降り注いでいた陽射しが、突然現れた雲に遮られ。今池の畔は薄暗い。足の先で軽く蹴った小石が池に落ち、瞬く間に幾重もの波紋を描き出す。くわんくわんくわん。そしてやがて、消えてゆく。 反対側に回ると、紫陽花の渦。朝早く散歩に出たのだろう老人がベンチに座って、ゆったりと煙草をふかしている。煙は瞬く間に風に流され、それもまた、消えてゆく。 再び自転車に跨り、大通りを渡って高架下を潜り、埋立地へ。店に立ち寄り、一杯のカフェオレを買ってそのままさらに走る。 海は灰色と濃紺を混ぜ合わせたような色合いをしており。ざざん、と堤防に打ちつけてくる波。白く弾け、飛沫が散る。 十年前、私はこんな歳まで自分が生きているとは思っていなかった。まさかこんな歳になるまで。さっさと死んでいなくなるつもりでいた。それがどうだろう。私は今こうして、ここに立っている。 鴎が一羽、大きな翼を広げ、横切ってゆく。一瞬強い風が吹いて、鴎がくるり、方向を変えた。 さぁ今日もまた、一日が始まる。私は自転車に跨り、また走り出す。 |
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