見つめる日々

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2010年06月04日(金) 
起き上がり、窓を開ける。昨日よりずっとぬるい風が流れているのを感じる。東から伸びてくる陽光は明るく、街景を浮かび上がらせる。私は大きく伸びをして、それから空を見上げる。雲のほとんどない、すっきりとした空がそこに在る。街路樹の葉がさやさややと揺れているのが見える。烏も雀もいない。通りを往く人も車もない。しんしんとした、朝。ゆっくりと空を往く雲の欠片。
しゃがみこみ、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。こんなに毎日毎朝覗き込んだって、変化がありありと分かるわけではない。そんなことは分かっている。分かっているのだが、気になる。もし私がほんのちょっとの変化を見逃したせいで、駄目になってしまうとしたら。そう思うとやっぱり、こうして毎朝毎朝、覗き込んでしまう。
大きく伸びた葉はしんなりとしているが、その合間合間から出ている短い葉はぴんと天を向いて伸びており。これならまぁ大丈夫だろう。私はほっとする。ここに改めて挿してから新しい芽はまだ出ていないけれど、それでもこうしてちゃんと、干からびることもなく立っていてくれている。鼻を間近に近づけると、ほんのりラヴェンダーのあの香りが感じられる。そしてふと思い出す。母の庭のラヴェンダーの茂み。母はどんな思いで、あの茂みを毎日眺めているのだろう。母が苗を分けてやろうかと言ってくれたのが先日、でも、まだいいと断った。まだ私のプランターの中でこの子たちは生きている。この子たちが生きているうちに、他の子を貰いたくはない。この子たちの行く末を、しかと見届けなければ。そう思う。
病に冒されている方のパスカリは、それでも葉を必死に広げており。日の光を浴びようと、必死にその手を伸ばしており。ふと思う。人は時に自ら命を断つというのに、この、植物たちの真摯な生き方はどうだろう。確かに、自ら命を断つというのも、人に与えられた一つの術なのかもしれない。自分だってさんざんそういう位置に在った。だから、それについて語れるような言葉は私は持っていない。それでも。この植物たちの姿勢を見ていて思う。真っ直ぐに生に向き合うことの重さを、強く、思う。
もう一本のパスカリは、昨日のうちにまた一枚、葉を伸ばしてきた。赤い縁どりのある葉。私はその葉をじっと見つめる。今のところ病に冒されている様子はない。このまま元気に開いてくれればいい。私は祈るようにそう思う。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。新しい葉を少しずつ出し始めている。私はその裏側をそっと撫でる。撫でた指には何もついていない。大丈夫、裏側にも粉は噴いていない。そういえば、この樹の葉は、薔薇の葉らしさがあまりない。細めの葉で、ちょっとかくかくしている。花がかわいらしいのに対して、葉は少し固めの雰囲気がする。色も緑というより黄緑色っぽい。他の葉より乾いた色をしている。私はぐるり、その樹を見つめる。今のところ、花芽は何処にもなく。それもそうだろう、この間花が咲いたのが奇跡のようなものだ。いや、花が咲かずとも、一生懸命ここで生きていてくれれば、それで、いい。
ホワイトクリスマス。新芽は徐々に徐々に、赤から緑色に変化してきている。そういえばホワイトクリスマスは棘が少ない。隣のマリリン・モンローに比べたらないに等しいくらいだ。棘で武装する必要がない、とでもいうのだろうか。その潔い姿に、私は今朝も励まされる。
マリリン・モンローは今、あちこちに紅い芽を吹き出させており。まるであっちこっち擦り傷を負ったガキ大将のようで。昔赤チンをあっちこっちに塗りつけていた子がいたっけ。最近は赤チンなんてものを見なくなったが、あれは今もあるんだろうか。マリリン・モンローの棘にそっと触れてみる。古い棘に比べてずっとまだ柔らかいその棘。真紅に緑を少し混ぜたような色合い。
ベビーロマンティカは、私が花を切るために切り落としたところから次々、新芽を芽吹かせている。柔らかな色合い。軽く茹でたらインゲンのようにおいしく食べられそうな、そんな色味。
それができないなら、私はもう死ぬしかない、そう思えて仕方がないの。友人が言った。電話の向こう、かすれた声で。遠く西の町、住んでいる彼女の声は、電話を通しても今は遠く感じられる。
それができないなら、自分はもう死ぬしかない。あぁ、そういう感覚がかつて、私にも散々在った。思い出すと、胸が何故か、ちくちく痛む。
これができないなら自分は死ぬしかない、これがやれないなら自分は消えるしかない。自己否定感が強すぎると、どうしても、そういう思考回路が生まれる。はっきりいって、他人から見たら、何故それっぽっちのことで?というような、その程度のことで、回路が繋がってしまう。
私もかつて、そういう時期があった。確かに、あった。
でも何だろう、彼女に対して今私は、うんうん、そうだよね、とは言えなかった。だから私は言った。それは違うよね、と。
何かができない、何かをやれない、だから自分は消えなければならない、というのは、やっぱり違うんだ。それができないなら、今度は別の選択をすればいい。それだけのことなんだ。選択の余地は、まだまだ残っている。どんなときでも、選択の余地は、残っている。
ただ、その余地が、見えるかどうか、ちゃんと感じられるかどうか、なんだと思う。
こんなこと言っていいのかどうか分からないが。私が言える言葉であるのかどうか、はなはだ疑問だが。それでも、最近思う。生まれたからには生きなければならない、と。
生きるために、生き残るために、今何ができるのか。それをこそ、考えなければならない、と。
今の私は、そう思う。
死にかけたことが、何度かあった。数えるほどかもしれないが、それでもあった。自らそういうふうに仕掛けたことが何度かあった。だから、そんな私が言っても、何の足しにもならないかもしれない。それでも、それでも思うんだ。生まれたからには生きなければならない、と。それはもう、理屈なんて抜きに。
これができなければもう、死ぬしかない、死ぬしかない、死ぬしかないって、頭の中で連呼する誰かがいるんだ。もうそれに従うしかないって、そう思えてしまうんだ。彼女が言う。私はただ、それを聴いている。
ねぇ、でも、そんなことないよね? 私、生きてもいいんだよね? それを選択したからって、死ななければならないなんてこと、ないよね? 友のその言葉に、私は頷く。当たり前じゃん。生きてていいに決まってるじゃない。あなたは生きるために産まれてきたのだから。生き延びることを今は、考えていこうよ。生き延びるために、今日、明日、生き延びるためにできることを、していこうよ。

娘が帰って来た。二泊三日、体験学習はあっという間に彼女の中で過ぎていったに違いない。満足そうな顔がすべてを物語っているようで。そんな彼女が私に尋ねてくる。ねぇママ、寂しかった? はい? 私がいなくて、寂しかった? ははは、寝るときとかね、寂しかったよ。あぁいないなーと思って。へへへ。何? ううん、何でもない。
どうも私に秘密にしたいことがあれこれあるようで。だから私は敢えて、何も聴かない。彼女が話すことだけに、耳を傾ける。

「世界の変革は、「私自身」の全体の変革を通して為し遂げられるのです。というのは、いわゆる私の自我というものは、人間存在の全体の働きの産物であり、その一部に過ぎないからなのです。従って「私自身」の全体を変革するためには、自己認識がどうしても必要になってくるのです。あるがままのあなたを知らなければ、正しい思考の基盤がないのです。「あなた自身」を知らなければ、変革もありえないのです。私たちは、こうありたいと思っている自分ではなく、あるがままの自分を知らなければいけません。こうありたいと思っている自分とは、単なる理想であり、架空の非現実的なものなのです。変革することができるのは、あるがままのものだけであり、こうありたいと望んでいるものではないのです」

私は時々戸惑う。これまで親しんできたものたちが変化している様に、私は戸惑う。たとえば生きるということに対しての思い。たとえば親に対しての思い。たとえば自分自身に対しての思い。
戸惑って、だから、時折途方に暮れる。一体どちらが本当なのだろう、と。私は今、どちらを選択すればいいのだろう、と。どちらをこそ感じ取ればいいのだろう、と。
戸惑って、途方に暮れて、私は立ち止まる。立ち止まって、そのたび、自分を励ます。今、今この時、私が感じていることが、私の真実なのだ、と。
確かに、十五年前、私が感じていたこと。それもまた真実。その時の私の真実だ。もう死ぬしか術はない。自分なんて穢れている、これ以上ここに在てはならない。そういった感覚は、それはそれで真実だ。
でも、今感じていることもまた、真実。私は生きてゆくべきであり、生き残るべきであり、穢れてはいるかもしれないが、それでも生きてゆくべき存在であり。
そうやって私は何度も、戸惑うだろう。途方に暮れるんだろう。立ち止まり、泣くこともあるのかもしれない。それでも。
それでもやっぱり私は、生きていくんだと思う。

それじゃぁね、じゃぁね、気をつけてね。手を振って別れる、玄関前。私はそのまま階段を駆け下り、バス停へ。
バス停に立つと、陽光がこれでもかというほど燦々と降り注いでおり。上着を羽織ってきたが、ここにいるとそんなもの要らないようにさえ感じられる。
混みあうバスに乗り、駅へ。制服を着た小学生が、泣きそうな顔をしている。どうも忘れ物をしたらしい。友達が、僕のを貸してあげるよ、と一生懸命なだめている。
たとえばこうした光景ひとつとっても。私にとって、日常ではなかった。朝出掛ける、バスに乗る、電車に乗る、人とすれ違う、それらすべて、一時期の私にとって、日常ではなかった。部屋から一歩も出ることなどできず。どうしてもと外に出ると、世界がぐわんぐわんと歪んで揺れて、地べたは下にあるものではなく、いくらでも揺れ動く、頼りない恐ろしい存在だった。
だから感謝する。今、こうして、多少の緊張感や恐怖感はともなってはいても、それでも外に出て、風を感じ、呼吸をし、歩いてゆけることを、幸せだと思う。
バスからどっと流れ出る人。その人波にもまれつつ、私もバスを降りる。駅は大勢の人が行き交い。私はその間を縫って足早に歩いてゆく。

さぁ今日も一日が始まる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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