2010年06月03日(木) |
がしがしと籠を噛む音が聴こえる。あの音はミルクだ。そう思いながら籠に近づく。やはりミルクが、籠の入り口のところ、がしがしと噛んでいた。おはようミルク。私は挨拶をする。娘が留守の三日目。いい加減彼女にもストレスが溜まっているだろう。娘がいればしょっちゅう籠から出してもらえて、遊んでもらえて。私はとりあえず、籠をちょんちょんと指で叩いてみる。後でちょっとなら出してあげるから、それまで待っててねと声を掛ける。 窓を開け、ベランダに出る。もうすでに外はずいぶんと明るい。朝の肌寒い冷気が私を一気に包み込む。ぶるりと体を震わせ、私は空を見上げる。すっきりと、雲のない空。水色の水彩絵の具をざっと広げたなら、きっとこんな色味になるんだろう。私は大きく伸びをする。軽やかな風が吹いている。旅先で買った柘植の櫛で、今朝も軽く髪を梳く。いい加減髪も伸びた。もう腰に届いている。切ろう切ろうと美容院に行くたび思いながら、ここまで伸ばしてしまった。ここまで来ると、一体何処まで伸びるものなのか、試してみたくなったりする。さて、今度多少なりとも切ろうかどうしようか。迷いながら、私は髪を一つに結わく。切るといったって、それは結局私の場合揃える程度のこと。それなら自分でもできないわけじゃぁない。今度髪を洗った後に、十センチくらい切ってみるのもいいかもしれない。 珍しく、灯りのついている窓がある。もう十分に外は明るいのに、それでも点っている。徹夜明けなのだろうか。そういえば冬の頃は、こうしてベランダに立って、今朝は幾つの窓の灯りが点っているのだろうと数えたものだった。 電線に今朝は、烏がとまっている。あの目線は、ゴミ集積場所に向いているはず。あぁ、そういえば今日はゴミの日。前夜からきっと出している人がいたのだろう。だからこうして烏が集まってきているのだ。私はベランダの手すりから身を乗り出し、下を見やる。やはり。もうすでに烏の嘴によって破かれたゴミ袋が、道路のあちこちに散乱している。烏はどうやって、このゴミの在り処を探ってくるのだろう。そのアンテナの張り具合、見習いたいほどだ。 しゃがみこんでラヴェンダーのプランターを覗き込む。枝によっては、何枚か枯れてきた葉も在る。私はその葉をそっと指で摘む。今彼らは、土の中、どんな具合になっているのだろう。覗いてみたい。でも、今掻き出したら枯らしてしまうことになる。ただじっと待つしかない。水を吸い上げる力はまだ在るのだから、信じて待つしか、ない。 パスカリの一本の新葉が、うねっている。怪しいと思って目を凝らすと、どうも病に冒されている様子。私は大きく溜息をひとつつく。せっかくここまで開いてきたというのに、やはり病は去ってはいなかったということか。私は急いでもう一本のパスカリを見やる。こちらはまだ大丈夫そうだ。新しい葉はぴんと伸びている。同じ種類、同じ土、なのに病に冒されるもの、大丈夫なもの、何が違うんだろう。分からない。 桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹の新葉を撫でる。裏側も丹念に撫でてみるが、以前のように粉っぽさはない。そろそろまた薬を撒いた方がいいかなと思っていたが、もう少し様子を見ても大丈夫かもしれない。 ホワイトクリスマスは、昨日のうちにまたくいと芽を伸ばしてきた。赤く染まる部分が多くなってきた。白緑色から赤い縁をともなった緑へ、そうして深い暗い緑色へ。この、途中に赤をともなう変化の具合を考えたのは一体誰なんだろう。不思議でならない。今ホワイトクリスマスの体の五箇所から、新芽が噴き出し始めている。そのうちの二箇所がすでに赤く染まっており。新芽は今、微かな風に晒されながら、なんだか気持ちよさそうに見える。このまま伸びると、左右のバランスが非常に悪くなるのは分かっている。でも、だからといって矯正するのもどうなんだろう。私が育てているのだから、そんなもの、必要はない。自由に伸びればいい。 マリリン・モンローの新しく根元から伸び出した枝葉。結構な太さだ。その太い枝に夥しい数の棘をつけている。青褪めた緑色に、赤い葉。開き始めた葉は最初、赤と青と緑を巧い具合に混ぜたような、そんな色味をしている。中でも赤が強い。だから、茂る葉の中で、誰が新芽なのか、一目瞭然だ。体のあちこちから噴き出させている赤い新芽。この中に花芽をつけるものもきっとあるんだろう。 ベビーロマンティカの、萌黄色の新芽は今朝も瑞々しく、艶々と輝きそこに在る。摘み頃の蕨を思わせるような柔らかさ。これが徐々に徐々に、逞しい強さをともなってゆく。風に晒され、日に晒され、時に晒され。そうして変化してゆく。まるで人間の肌のようだと思う。 友がぽつり、呟く。あなたはもうその境地まで至ったのだね、と。私はまだ、自分の母と自分の娘との間で葛藤している。母と娘があまりに似通っていて。それに圧倒されて。負の要素ばかりが襲い掛かってくる。正直しんどい、と。 しんどい、という言葉が、私の中で響く。とてもよく分かる気がした。私もしんどかった。自分の母と、自分と娘とが似ている。かつて虐待してきた母と似ている娘を、どう扱っていいのか、どう接したらいいのか、全く分からず、途方に暮れたことがあった。隣に眠る娘の匂いがあまりに母の匂いを髣髴させ、全く眠れずに夜を過ごしたこともあった。 じゃぁどうやって、そこから抜け出たのだろう。改めて考えてみる。 そこには、気づきがあった。 巧く言えないが。それまで私は、母と娘との共通点をどこかで探していたのかもしれない。一度見つけてしまった共通点を、どんどん広げるべく、次々探し出そうとしていたのかもしれない、と。そのことに、まず、気づいた。 母と娘、重なり合う像。それをそれぞれの像にすべく、だから私は、彼らの相違点を探すことにした。たとえばすごく些細なことかもしれないが、決して謝ることのない母、に対し、娘はごめんなさいという言葉を用いる。たとえば母は決して喜びを体で表現しようとはしないが、娘はする。 そんな、どうでもいいような、見過ごしてしまいそうな相違点を、ひとつずつ挙げていった。はっきりいって、負の要素のほうがずっとずっと大きく圧し掛かって見えてくる。でもその狭間で揺れている違いを、私はあえて数え上げた。それまで重なり合うしかなかった像を、私はそうして、引き離していった。 そして何よりも。当たり前のことなのかもしれないが、それでも。私と母の関係は私と母の関係であり、私と娘の関係は私と娘だけのものであり。決して重なり合うものではないということを、自分にくっきりと刻み込んだ。 関係は連鎖するものではない、ということを。 どうやったって似ている。血がどこかで繋がっているのだから、私は母の面影を娘の中にこれからも見出すのだろう。それでも、違うのだ。母は母、娘は娘。そして何より。 私は私。 途中何度も、引き裂かれそうな痛みを感じた。自分が分裂してしまうんじゃないかと思った。一体私は誰なのかと、問わずにはいられなくなる時間もあった。娘の中に母をどうしても見てしまうから、娘から目をそらしてしまうことも、在った。 それでも。 諦め切れなかった。私は、諦められなかった。 私は、愛したかった。 母を、娘を、それぞれに、愛したかった。だから、諦められなかった。 母との時間は、あまりに重くて。何度押し潰されそうになったか知れない。母のあの冷たい目、冷たい言葉、冷たい背中。様々な記憶が、津波のように何度も押し寄せた。もうあの位置には戻りたくない。悲鳴を上げそうになった。耳を塞いで、もう何もかもどうでもいいとしゃがみこんで目を閉じてしまいたくもなった。 でも。 どんなに目を閉じても、どんなに耳を塞いでも。現実は、そこに、在った。 私が過去の重荷にのた打ち回って、喘いで、そうして顔を上げると、そこには「今」の母と娘が立っていた。母はいつものように口を結び、娘はにっと笑って、そこに立っていた。 そう、「今」の母が、「今」の娘が、そこに在た。 私の過去がどうであっても。母と私の過去がどうであっても。過去は過去、変えようがなく。 あぁそうか、私に在るのは、「今」なのだ、と。私に変えてゆけるものがあるとしたら、それは唯一「今」なのだ、と。 ようやく気づいた。 失敗は、何度でもするんだろう。何度だって躓くんだろう。これからも。何度でも。それでも、「今」は、私に与えられた、唯一のものなのだ、と。 私は彼らとこれからも関係し続けてゆく。その彼らとの関係は、「今」なのだ、と。 そんな、当たり前のことに、ようやっと、目を据えることができた。 母と娘の像が、重なり合っていた像が、気づけば、それぞれに別れていた。二人は二人として、そこに在った。私の目の前に。 私は母と血が繋がっている。でも、全く別個の人間。私は娘と血が繋がっている。でも、全く別個の人間。三人とも、全く別個の、それぞれの、人間。 これからだって痛い思いはするんだろう。怪我もするだろう。心がぼろぼろになることもあるんだろう。泣き叫ばずにはいられない夜もあるかもしれない。それでも。 私は娘を愛し、母を愛し、そして二人を、慈しむ。
「この解答は、明らかに、この問題を生み出した当の人間にあるのです。つまり害毒や憎悪や、人間同士の間の測り知れない誤解を生みだしている私たちの中にあるのです。このような害毒や無数の問題を生み出しているのは、「あなた」や「私」という個人の方であって、普通私たちが考えているように、世界の方ではないのです。世界は「あなた」と「他の人」との関係であり、「あなた」や「私」と別の存在ではないのです。世界や社会は、私たちがお互いの間に樹立している、あるいは樹立しようとしている関係にほかならないのです。 そこで問題は、「あなた」と「私」であって、世界が問題ではないのです。なぜかと言いますと、世界は私たちの姿が投影されたものなのですから、世界を理解するためには、私たち自身を理解しなければならないことになるのです。世界は私たちから独立した存在ではなく、私たちが世界そのものなのです。ですから私たちの問題は、そのまま世界の問題と言えるのです」 「人間は孤立しては生きられないのですから、それは世界から身を退くことではないのです。生きるということは、私たちがお互いに関係をもっていることであり、孤立して一人で生きることではないのです」「私たちの住む世界が、たとえどんなに小さなものであっても、私たちがその窮屈な世界の中でお互いの人間関係を変えることができるなら、この新しく生まれた人間関係は、ちょうど波が波紋を描くように、絶えず外へ外へと広がっていくことでしょう。ですから、私たちの住む世界がどれほど狭くても、その世界は私たちの人間関係にほかならないのだということ―――この点を十分理解しておくことが大切だと私は思います」
玄関を出ると光の洪水。私は階段を駆け下り、自転車に跨る。坂道を下り、通りを渡って公園へ。 池のある方とは逆の方へ行ってみる。あぁやはり。紫陽花がもう咲いている。水色の、雨の雫を紙に染み込ませたらこんな色になるんじゃなかろうかと思うような水色の、紫陽花。この公園のこちら側には、紫陽花が山ほど植わっている。これからしばらく、紫陽花は次々咲いて、このあたりを彩るんだろう。私はしばし時計柱の下に蹲る。そうして周りをぼんやり見やる。水色の花が帯のように見えてくる。ふと見れば、ブランコの周りに鳩が集っている。忙しげに何かを啄ばんでいる。木の実でもあるのだろうか。 公園の坂道を下り、大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏が立ち並ぶ通りを一気に走り、モミジフウの辺りへ。まだ行き交う人も疎ら。私はその中に立って、樹を見上げる。高い高い樹は見上げると、陽光を受けきらきらと輝いて見える。でも一方、幹の黒さはこれでもかというほど際立ち。光と陰の具合に私は圧倒される。 樹の足元に集っていた鳩が今一斉に飛び立った。 さぁ今日も一日が始まる。私は再び自転車に跨り、走り出す。 |
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