アルの日記
DiaryINDEX|past|will
| 2001年12月30日(日) |
最近頭に浮かぶこと Vol.2 |
前回の続き。
う〜ん・・・長くなってしまったのだがそろそろ本題に入ろう。 話はちょっと飛躍して、世の中にはいろいろな人がいていろいろな価値観・社会・立場で生きている。 調子の悪い時というのは意識範囲がかなり小さくなってしまっている時が多いのでそういう時は自分の場合、なるべくいろいろな事についていろいろな角度から考えようとしてみたりする。 一つの物事に対してもいろいろな考え方・見方が存在するのだがそれらを一つの頭で一遍に処理しようとしても無理なので、その時に思い浮かんだ考え方でとりあえず考えてみたりする。 今、ふっと思い浮かんだのはDurkheimの「自殺論」。 これによると自殺のタイプを社会との融合度と社会的規制という2つの組み合わせから以下の4つに分類している。
��Egoistic suicide 社会との融合度が低い時に「個」が孤立してしまって起こる自殺。 集団との結びつきが弱まったり壊れたりした時に発生する。
��Anomic suicide 社会的規制の欠如による自殺。 つまり、アノミー状態(社会の急激な変化や不安定さにより価値観や道徳の基準が失われてしまっている状態)による自殺。 例えば今の日本のように経済的な大変動やら目まぐるしいほどの情報が入ってすぐに消費されていくような状態は一種のアノミー状態なのかも。 何が正しくて何が悪いのか、その判断基準になるものがわからなくなってしまっている人が多いのだから。 また、これには離婚などのような個人的なことも含まれる。 自分を取り巻く環境と自分の欲求とのバランスが崩れてしまうために起こるのである。
��Altruistic suicide 直訳すれば利他的自殺。 これは社会との融合度が強い時に起こる。 例えば、あの9月11日のアメリカのテロ事件やイスラエルで頻発しているイスラムの自爆テロ、日本の神風特攻隊など。 トラディショナルなものが根強く残っている社会で発生する。
��Fatalistic suicide これは社会的規制が強すぎる時に起こる自殺。 あまりの圧迫感により自分の運命や社会に対して無力感を抱いてしまって起こる。
この論に対していろいろな賛否両論があったみたいだが、一見個人的な原因で自殺してしまうというように見えるけどその背景にはやっぱり社会的な要因も存在することは確かなのだ。 そして、この自殺論から「人間が正常を保って生きていくには社会との融合(つまり社会の中での自分の居場所があるということ)と社会からの規制(価値観や道徳の基準など)、この2つがそれぞれバランスよく備わっている必要があるのでは?」っていうことが導き出せるように思うのです。
ここでまた話はタイの友人のことに戻るのだが、彼にこのことを当てはめて考えてみる。 最初に書いたように彼は駄目人間なのである(←もちろん親しみを込めて、笑)。 まず、社会との融合ということについて考えてみると、前回も書いたように彼は国籍はタイ人であるが、父親はフィリピン在住のフィリピン人であり母親はタイ国籍だが中国人(華僑)で、おまけに彼のnative languageは英語でありタイ語もしゃべるとはいえどこかたどたどしいのでタイ人の中にいてもどこかやっぱり浮いてしまっている。 実際、タイで大学院に通いながらどこかで英語も教えていたのだが、どちらも馴染めず(周りの人との付き合いがうまく行かず)辞めてしまっていた(←これはアメリカでもそうだった)。 つまり、アイデンティティーの問題でかなり悩んできたことが容易に想像できるのです。(でも、タイにいる華僑は他の国と違ってなんかタイとうまく融合してしまっている感じがするのだが・・・あれもタイのお国柄で外部のものに対して優しく寛容な人々だから溶け込むことができたのだろうか・・・そういう点では一応彼も融合しているといえば融合しているような気がする・・・やっぱり良い国なんだなぁ〜・・う〜ん・・・そういえばタイも日本同様、アジアの中では欧米の植民地支配を受けなかった国・・・これも何らかの関連があるのかな・・・それにタイも戦争中、日本とかに協力してたから準敗戦国になってしまったんだっけ・・・?う〜ん・・・はっ!そうか、ということは・・・(以下独り言が延々と続く、笑)。
次に社会的規制・・・というか、彼の道徳・価値観について。 やはり彼は欧米での生活が長かったせいか、ある種、分裂的な所があるように感じるのです。 ひとつはタイ人的なところであり、もうひとつは欧米人的なところ。 前者に関しては、タイは敬虔な仏教国であるのである程度の年齢になるとみんな一度は僧門に入らなければならないらしくて、彼も例外ではなく、ジャングルの中の寺でオレンジ色の袈裟を着て丸坊主の彼の姿が写った写真があった。 それを見た俺は思わず笑いそうになってしまったが必死に耐えたのだった、笑。 その隣には何故か白人の坊さんが写っていて「誰これ?」と聞いたら意外なことに「師匠のアメリカ人だ」と言っていた。 う〜ん・・・仏教の師がアメリカ人・・・当時はタイ語が全然できなかったのだろうか・・・? まあ、60年代後半のヒッピームーブメントとかサイケなサブカルチャーで白人でも東洋の思想に入れ込んだりする人が多かったからそういう人がいてもおかしくはないのだが・・・う〜ん・・・まあ、これ以上あまり突っ込んで聞かなかったのでよくわからんのだが・・・。 ちょっと話が脱線したが、まあそんな感じで彼は敬虔な仏教徒であり、例えば仏壇に足を向けて寝ようとすると怒る。 それに、物を非常に大切にする。 俺が大昔に録ってあげたテープもちゃんとまだ持っていてくれたし、本もいらないから捨てようとすると怒る。 食べ物もどんどん出してくれるのだが腹いっぱいだからもう食えん!といっても絶対に残さず食べさせられる。 表情などもタイ人らしく目が澄んでいて爽やかで穏やかな微笑みを浮かべる。 (ちなみに物を大事にするっていうことは自分の記憶・思い出なども含めた自分自身、さらにはそれに関連して自分と関わりを持ってきた人をも大事にするということに繋がってくるような気がするのです。それゆえ彼は昔のことを細かく覚えていたりする。俺はあんまり覚えていないのだが・・・笑。)
しかし欧米人的なところがやっぱりある。 彼は本名の方がカッコイイ響きなのであるが英語の名前を付けられて育った。 それゆえ俺もずっとその英語の名前で呼んでいる。 まあこれはおいといて、とにかく欧米的エゴイズムが強くてかなりワガママな頑固者であり(←これはお金持ちのボンボンということも関連していると思うのだが・・・笑)、特に、怒ったときなどは徹底的に相手を罵倒するようなところがある。 そういう時の彼の言葉の5分の一くらいは”fuckin'”やら”suck”、”ass”みたいな単語で占められ、かなり興奮してイってしまっているため早口過ぎてスラングだらけなので所々しか聞き取れなくなる。 そして俺はそういう光景を目撃するたびに彼の中の穏やかで思いやりのあるタイ人気質との明らかな乖離を感じざるを得ないのだ。 う〜ん・・・その後に自己嫌悪に陥ってるのだろうか・・・わからん。
そういえばこんなエピソードがあった。 雑誌に、とある欧米人のサッカー選手がシュートを決めた後に勝ち誇って自分を鼓舞するかのような表情、つまり、キリスト教的一神教・善悪二元論に端を発する欧米人的個人主義から来る表情を浮かべてこぶしを強く握り締め、手を大きく振り挙げたポーズで写っていた。 彼は俺に「アル(仮名)、これどう思う?」と不機嫌そうな顔で聞いた。 彼が何を言いたいのかはわかっていたし、俺も同じ気持ちだったので「こういう表情は嫌いだ。」と答えた。 そう、あれは「俺がやったんだ!!!どうだ!!!見たか???この俺様がやったんだぞ!!!あいつらに一発かましてやったぜ!!!」っていう表情であり、それは思いやりという相手の気持ちを察する我々の文化からは出てこないものなのだ。 例えば日本とかの場合ならチームの仲間との喜びを分かち合うかのような表情を浮かべて喜ぶはずだ。(う〜ん・・・これらのことについても、例えば個人主義と天才や発明の関連性とかメインストリームとオルタナティブの事についてとかいろいろと書きたいことがあるのだがそれはまたそのうちに考えようっと・・・笑。)
特に彼はアメリカ人が嫌いだった。 昔、俺の部屋に遊びにきていた時もよく窓を開けてそこから顔を出し「アメリカ人は馬鹿だぁ〜。ふざけんなぁ〜。」と叫んでいた、笑。 ああいう自己表現方法もまるで白人のそれだ、笑。 笑い方も白人の様に体全体で思いっきり笑う。 っていうかアメリカに来る前はずっと長年イギリスにいたのでまるでイギリス人みたいだった。 表情、ジェスチャーを含めた話ぶり、礼儀正しくてスノッブなところ。 「Can you・・・?」というと「Could you・・・?」に直される、笑。 まあ、今はずっとタイに住んでいるので少しそういう傾向は薄れているかも知れないが、文化・社会が人に与える影響というのはそれらに浸かっている期間が長ければ長いほど大きいのであまり変わってないような気もする。
う〜ん・・・俺は何が言いたいんだろう・・・笑。 ん〜・・・・結局、彼がちょっぴり羨ましかったりするってことかな・・・笑。 酒の飲み過ぎやら何やらで頭の中が爆発してしまったらしく、医者に通っていたみたいだが、見たところ経済力もあって奥さんもいて先々の心配もなさそうでのんびりと快適な暮らしをしているし。 人間関係うまくやっていけないと言ってもやっぱり俺の抱えている問題とはどこか違う。 これはやっぱり社会・文化の違いから来ていることは間違いない。 社会的圧迫感・閉塞感・孤独感、言葉にすることができないこの持って行き場のないやるせない感情・・・一体この正体は何なんだろう・・・? 今の俺には、とりあえず自分の気が狂わないようにするという「防御的、消極的アプローチ」だけで、なかなか動きに転ずる「攻撃的、積極的アプローチ」が取れんのです。
まあ人や他の国の人々を羨ましがってばかりいてもしょうがないな・・・。 自分にはやっぱり自分なりの課題があるのでそれに体当たりで直面しながら頑張って問題を解決していくしか方法はないのだから。 それ以外の方法でどうにかなったとしても自分にとってはちゃんと生きたって事にはならんと思うし。 自分がこの国のこの時代に生まれて今生きてるって事はそれなりに何かしらの意味・役割があるのでしょう。 その意味・役割を考えるのは自分自身であり、それを踏まえてどう生きるかも自分自身で決めること。 う〜ん・・・とりあえず日本酒でも買ってきてその辺については飲みながらゆっくり考えるかな・・・(←ついでにこの意味・役割についても飲みながら考えてみるか・・・笑)。
|