
戯 言ノ源
―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰
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2008年08月23日(土) ■ |
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外れの方で光る星。 |
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幼かった頃の話を、成長した子供に向かって、大人が語るのは卑怯だなと、常々。 嗚呼又若干不穏な感じですよ。しかし日々そうした考えごとで我が脳内は構成されております。もっと現実に自分が直面している問題とか目を向けられないのか。当面それは見当たらないって事にしておきます。 それってまるで幸せみたいでしょう? 尤も考える事が無くなるのならそれはやや不幸せにも感じますが、あくまで個人的な話。
それで、幼い自分が何をしたか、何を思い何を言ったか、正直漫画の主人公でない限り細部まで覚えていられませんし、それもショッキングなトラウマとか絡めないと中々。ヤスコとケンジのヤスコの記憶力を僕は崇めています。凄いよあんな毎回回想で具体的且つ正確に必要なエピソードが出てくるなんて。 勿論、三つ子の魂百までだとは思いますし、その時に受けた何かからの衝撃や何かへの偏見こそが、これからの長い(という事にしておく)(またそういう余計な蛇足を)(だって明日事故らないと限らないじゃないか)人生を殆ど決定づけるのだと思ってます。 それでも、子供と大人の記憶の差って、あるじゃないですか。勿論些細な事を沢山洩らしているから大人ですが、所謂初めて立った日喋った日の続きで、砂場で遊んだ時の態度、思いっきりこけた時の泣き続けた秒数、ボタンを一人ではめるのに四苦八苦していたとか、幼稚園でどんな理由で海の絵を描いたとか、そういう事を覚えているのは、やっぱりそれを眺めたり聞いたりした大人です。日記にでも書かなければ、到底本人が覚える事は叶いません。脳内にこびるつかせるだけの何かがないと、ただの日常の流れでは。 そういうのを、思い返すよう懐かしむよう言われて、同じ思いは勿論の事気恥ずかしさも自分は感じません。ただ、ある意味で馬鹿にされているような(それを始めに持ってきている時点で性根の程が窺えますがw)、若しくは今が否定されているような、或いは所詮こっちの掌で踊っているのさと年功序列の本質を利用しようとしているのか、それとも、辱められている気分になる。 己を形作った、一つ一つを忘れてしまっているけど、でも確かに不必要に混じった、必要がいるんだろう。どうしてそうした考え方や生き方が定着したのかと、起源を探ってぱっと出せる程ドラマチックに生きてない。そういうのこそ、主人公の特権だ。虫の報せ的な胸騒ぎにも通じる。 その時、自分が本当に何を考えていたのかなんて、例え自分自身だって過去とはもう違うのだから、断定は出来ない。だけど、それを何処からか見ていた他人の視点で、自分ではない誰かの考え方で、着色されてしまうんだ。きっとこう思ってこんな事してたんだよと決めつけられてしまうんだ。多分それが、受け入れられないんだと思う。 そんな事言ったらだからもう誰も何も喋れなくなりますし、話しかけてくれなくなるし、自分としても極端に語れる事は狭まるだろう。 定義に固執するつもりはなく、だから文章上だけでも饒舌でいられて、そしてちょっと、これからもその為に我慢を強いられるんだ。時に心地好さを覚えつつ、凝り固まった心が為に耳障りになってしまう、誰かの言葉に嘘臭い微笑みで返しながら、煮えくり返ったはらわたを此処でぶちまける。 結局、全てを曝け出して我儘に生きる事は、無理難題って事だ。余程己の欲望が筋道立てて統制とれていない限りは。そしてそんな事は、ありえないなんて事はありえないくらいありえない。
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