
戯 言ノ源
―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰
|
 |
2008年09月23日(火) ■ |
 |
偉大なのは生きている君自身。 |
 |
トップがあそたんに挿げ替わりましたが、そうなるのは明白だと伝えていたメディアが今度は支持率が低いだのぼやいている。 勿論それは国民の声とやらなんでしょうが、いやなら止める為に他の候補者立てろよ。幾ら反発心からといえど選挙参加を促がすのはなんだか癪ですが。だって実際一人一人の力なんて微々たるものでそれこそ徒党でも組まな不動だろうとは思うので。 それでも、それでは積極的に選挙に参加するのはメリットがある人か狂信者のみになってしまうので、賑やかし程度の気持ちでいいから清き一票をってやつか。嗚呼駄目です答えとして辿り着くのはそこなのにそれを認めたくなくて仕方がありませんややこしい。
個人的に失言を取り沙汰して人をずり落とすのは単なる言葉狩りにしか思えなくて嘲笑ものですが。確かに発言には日常生活での傲慢さだとかどれだけ曲がった価値観を持っているかが如実に反映されるものですし、またそれらを構築するのは日々の何気ない一言一言。 しかし余程人を愚弄するものではないのならばそれを槍玉に上げる前にもっと見るべきものはないのかと。 未だブラックジョークの根付いていない文化、昨今活躍し出している猫男爵辺りがその武器である悪口とやらで新たなカルチャーを築いているのやも知れませんが。しかし個人的に彼はきらいです。テレビに映る人に求めているのは美しさか面白さなんですが、そのどちらも無ければ興味が湧かない。そしてそれなのにやたら熱に浮かされメディアに露出していると或いはきらいになります。あれの何処が的確で鋭角な視点なんだろう。っていつも通り話がずれている。 なんだっけ、えぇと罵詈雑言は結局大衆の食い付きがいいからメディアが取り上げる訳なのだろうなと。何せ視聴率戦争の時代ならば大食いの偽装も許されるとかで。それ以前に大食いはあんまりすきじゃn(また脱線するから) スローガンなんかもそうですね。聖域無き改革だの美しき国日本だの、その言葉が感銘を受けるから残るのではなく、その言葉をメディアがこぞって流すからなんとなし頭に残りという事はなんか心に響くものなのかなと勘違いするに過ぎないのでは。
それじゃ何が失言の類いに入るのかといったら、それもまた非常に難しい分類です。例えばそうですね、支那と書いてシナ、中国を指しますが、元々はただの国名(というかなんというか)(めんどいのでそれで通す)であったのに一時期差別用語として使われていた為、多分今も一応その括りに入っていた筈です。詳しくはググるかウィキるかどうぞ。 今の中国というのは単なる略称のみならず尊称としての側面も持ち、それが傲慢だと叩かれ嘗ての日本で蔑称が生まれたとかいいますが、所謂大日本帝国のような事じゃなかろうかと思うんですが。 結局セクハラやいじめと同じく、受け取る側の意識と言うのが重要で、差別意識を持って侮蔑の目で以て呼ばれる蔑称だと、言われた人が感じたのならば、それは誤った発言として謝罪が必要なものになる。べきである、という個人的な見解ですが。 でも、何も知らずに使ってしまう場合もある。支那そば、というのも徐々に中華そばに移行していますが、そうした意味合いを持つとは知らず単なる商品名だと思えばなんの疑問も懐かず看板に掲げるでしょう。……いや、それはちょっとノータリンか? ところでノータリンよりノールスのが響きがすきです。 逆に、差別用語と分類するからそう見ようという向きになり、そして死語にされていく内事情を知らない世代が出て来て、取り分け差別だと叫ばれるものはそのものが存在する事自体を伝えようとしませんから、何かの拍子でそれを耳にした際その単語を聞いて何故顔を顰める人がいるのか判らず、訊ねて始めて意味を知ったり、或いはそういう呼び方もあるのか程度の認識で終わればそれが差別表現なんて知らず口にしていくやも知れない。更に言えばその呼称が差別であると知らないのは何も使用者だけではなく、敢て差別用語であると聞く事で奇妙に無闇に過敏になる状態を生むのは如何なものかと思いますが。 あれなんか話外れてきた。まぁ脱線ぐせはいつもの事ですが。 つまり、それは差別だと過剰に反応する人が言葉狩りを生み出していて、多分若しそれが本当に差別の用語で使われたのだとしても、実際には言われた当人は傷ついたなら静かに苦しむんじゃないかと。いや、勿論そうじゃなくやめてくれと声明を挙げるのは自由ですが。扇動者が必ずしも傷ついた人かどうかというとね。話題性とかに惹かれた夏のなんちゃらでない可能性が……なんならもう一度バベルの塔を建造したらいいんじゃないかと。
|
|