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嫌いな食べ物「キュウリ」


2002年04月10日(水) 私という子供、私という大人

 大人になりかけた子供に課せられる課題、というものは目に見えずとも存在するだろうと思う。此処で言う子供、大人、というものは単に体の変化や年齢ではなく、精神そのものを差すものだと思って欲しい。其れは勉学や環境に対する言動そのものを差すのではなくて、精神構造の一部変革のようだと私は思う。

 例えば私はきっと社会的に排他させられ得る、させられるべき人物である。其れは唯私の言動と生活習慣諸々の事柄から派生しているが、自己愛ではなく、私の精神を優越する(この時点で既に優越、劣等、という価値観は存在しないに等しいと思うが、あえて使うとして)精神を所持した大人はどの位存在するのか? と、考えたときに、私の精神的居場所、というものは遥か周りを凌ぐ、若しくは一haほどの水準通りの面積を、五十代六十代のある人と同様持っていても可笑しくは無いと思うのだ。
 これは簡単に言うと、如何に深く考えるか、ということでもあるのだが、単に深く考えれば良いというものではない。疑問を持つことが大切であると思う。
 果たして算数を学ぶ段階で、数学を学ぶ段階で、ある形式を習った段階で、基本的過ぎる所に深く疑問を持った人は居ないのだろうか。私は持った方の人間であった。また、更に過去に遡るとタイヤの動きに疑問を持った幼児でもあった。其れは歯車の動きに疑問をもつのと同様であり、摩擦力に疑問を持つものと同様であった。
 大人になる段階で疑問を持てる場、というものは脳の発達と経験の豊富さによって増えていく。逆に、私から言わせて貰うとその機会を失って唯レコードのように素晴らしい音だけを立てて進んでいく人、というものは子供であり、何も感じ得ない、教科書を丸暗記し「あ」という一文字の中から意味を見出すことをしない未完成、或いは生命の無駄遣いをする馬鹿だと言える。

 私にとってそういう人は常に嘲笑の対象であり、見下しの標的であり、憐憫の矛先である。同じ品種の生き物だとは思えず、何処かで道を誤った(若しくは私が誤った)もう一つの何か、という生物に見えるのです。
 私のように生きていくことが本当に幸せな生き方だとは到底思えません。逆に幸せにはなり難いでしょう。然し私はこの望みもせずに与えられた人生、という巻物に掘り込まれているインクの深く染み込んだのをこよなく愛します。そしてそういった人を常に愛します。
 人生を楽しむ人を嫌っているのではありません。私も楽しんでいる筈なのです。出来るのなら最大限の流動的な機会を逃さずに居たいと思っているだけなのです。

 人間はその内理性に本質が押しつぶされてしまう。理性は大事なのか、時折其れを考える私は理性的過ぎる節がある。


 追記
 私の文章を、「持って回った言い方を好む」と指摘した方がいらっしゃります。嗚呼その通りかも…。自分でも読む気は失せます。でもきちんと読み返しますが。
 私の文章、というものは別段技術を使ったわけでもなく(というか文法やら文章学など何も学んでないから…)頭で整理して書いているわけでもなく、メモを作って書いているわけでもなく、書き始めて言いたいことが出てきて書いている、というパターンですので其々に間違ったものが多く含まれているようです。(笑)
 それでも噴出するように言葉が出てきてしまう、というのは私の一種の短所でしょうかね。つまり私の文章、というのは私の価値観でしかないので、私を取り囲む世界を考慮して書いたものではありません。(笑)
 因みに此処まで読んで下さる方は居るんでしょうか。いらっしゃったら是非申告をしてみて下さい。(笑)驚きますので。100パーセントいらっしゃらないと確信しての追記でした。其れでは。


さくま