嫌いな食べ物「キュウリ」
2002年10月15日(火) |
死の意識についての内側視点と外側視点(どっちも私の視点) |
食事の帰りの電車の中にて、物凄く末恐ろしいものを目撃したのでご報告。最初に言うなれば「漫画やPBCが現実じゃなくて本当に良かった!現実よ有難う!」。
一寸スパイスの効いた(と私は思った)格好良い服装をしている男性を見ました。髪の毛が真っ黒で直毛で、艶があって綺麗でした。
それから髪の毛の長さが腰まである、姫カットでした。
…。
吐きそう。(凹
私は暇だと自分を内側から見た解釈と外側から見た解釈を一気に(滅茶苦茶な)論文のように頭の中に文を並べていくことがある。一寸面白いので書きます。難しい、と言うよりも寧ろ一般的に論点が飛びすぎている傾向があるので要注意。
一般的なことは分からないので私だけの世界として書く。
私は戯れで無く、死というものを意識する。自然死では無い自殺を意識する。見た目他意的な故意の事故死を意識する。そうして私は死なないでいる。
これを先ず私の内側から見た感想と推測等を述べる。(こっちはあまり面白くない)
死を意識するという事柄は少なからず私を悦に浸らせている。私は周りの彼らとは違う意識の人間であるという確証が必要で、その確証として死が存在する。よって私は「明日死ぬかも(死にたくなるかも)知れない」「次の瞬間に死ぬかも(死にたくなるかも)知れない」という不安定な未来に追いつかれる前にやりたいことをすることが出来る。後悔をすることが少ないのは私が死と友人であるからだ。言い換えるなら私は私という殺人者と共に生活をしているのだ。彼らは殺人者と友人になることが無い。何故なら彼らは常に生という未来を根拠無く信じていることが出来るからだ。しかし私は彼らの中の異端児である。そう思うことが更に私ともう一人の私を仲良くさせる。彼らが生きているのは生という未来の為である。私が生きているのは生の為ではなく、死ぬ為である。この違いが私が生きている間の最大の色であり、私は彼らの世界には存在しない色鉛筆として殺人者の私と生を殺すことが出来るのだ。この特別感が私を次へと誘う麻薬なのである。
次に私の外側から見た感想と推測等を述べる。(こっちが面白い)
私は死を意識することによって本来の私になったのだとは言えないだろうか。そして死を意識することによって生の素晴らしさを知ったのでは無いか。時に惰眠のように続く生という点の繋がりは、それが点ではなく唯の線であり、抜け目無く、途切れる事無く、続いていく現象の一つだと錯覚させることがある。死の意識と言うものは明らかにそれを線ではなく点として認証する手段である。この一時は今でしかなく、今は永劫続く筈無く、死と言う不安定な未来の御陰で今この時間この瞬間という点は限りなく希少価値のあるたった一度きりの、もう体験することの出来ない物(イコール時間)であるのだと思うことが出来る。私にとって死の意識というものは単に死と仲良く過ごすことで無く、目に見えぬ透明な液体を目に見える一つの定義として表すことの出来るリトマス試験紙なのである。透明なものに人は特別性を感じない。私は何らかの衝撃やきっかけで生という透明なものを目に見える鮮やかなものにしたいようになっただけでは無いのか。私の考える死の意識と言うものは、実はとても愚劣で怠慢な狡さをもった手段なのでは無いか。私は死を意識することで生きることが出来る。生に執着している。死が迫っているということを言い訳にして聞きたくないものは聞かず、見たくないものは見ず、全て自分の心が傷付かぬように加工して上手く生の厳しさというナイフの刃から心を逃がしているのでは無いか。「自分は何時でも死ねるんだ」という安心感が生への執着を産み、やがてその安心感は自然死という最も安直な終わりへと招くのでは無いか。また、実の所それを知っていて自然死というもの待つ為の理由として死の意識があるのでは無いだろうか。私の持つ死の意識というものは私の処世術に過ぎない。上手く賢さという視点でコーティングされた狡い考えなのでは無いだろうか?
さくま