嫌いな食べ物「キュウリ」
嘘の無い情熱から作り出されることの無い、お話のいくつかは、ゲームであると思う。
私は今いくつかのゲームを所持している。情熱を捨て去った、もう殆ど腐敗して動くことの無いそれと、飾り立てた情熱という言葉だけの中身を伴わぬそれと、情熱というにはあまりに生ぬるいそれと、突然降って沸いたように私の身体に必要の無い情熱を浴びせ掛けて、此方が受け答えする前に帰って行くそれと。
数え上げればきりが無い。どれもこれも、欲望から生まれているばかりで、私が日々によって、気分によって、進めるゲームもまたそれぞれだ。
こういう生活が悪いとは思わない。良いとも思わない。仕掛けているのかもしれない、仕掛けていないのかもしれない、気付いたら、手元には、もう何個ものゲームが居た。
「いつが暇なのか分かりません」だとか
「元気?」だとか
「ペット飼いたいなぁ」だとか
「水族館!」だとか。
或いは電話してしょっぱなから泣いていたりだとか。
或いは電話して出ないと、一週間電話の電源を切っていたりだとか。
時折悪態をついたりだとか、舌打ちをしたりだとか。
かと言って突然珈琲を持っていったり、禁止を解除してみたり。
私を隠さないでいるといつも手元にゲームがあった。なぜだかしらない。私はいつも、そのゲームたちを眺めては、終わらないものだったり、終わるものだったり、永遠に続くものだったり、消えているものだったり、区別がつかずに、ただ夜寝る前にいとしく思った。
けれど、それに充足感が全くない。深みもなければ、くだらないことも、美しいことも、ばかばかしいことも、死ぬほど泣くことも、何も無い。
今、私の手元に残っているのはそんなものだ。
毎日、甘い菓子ばかり与えられる。
私が答えるのは何通りもある。舌打ちか、笑いか、無視か、世辞か。
ときおりこんな現象に泣きたくすらなる。そういうときにゲームというのは全く役立たずだ。
さくま