最近どうも、ふとした拍子に何かを思い出すことが多い。 何故かしら。 特に、去年の冬の記憶が頻繁に出てくる。 冬の匂いで思い出すこともあれば、何故か今日の帰り道、 目の前を歩いていたお水っぽいオネェサンの茶色い髪を見て、思い出したりもした。 昨年末から、今年のお正月にかけての、別にどうということもない記憶たち。 頭の中の記憶の引き出しが、ちょっと乱れてきてるのかしら? それとも、文化祭が終わって急に仕事が減ったから、 使用量の減った頭が、空白を埋める為に記憶を引きずり出しているのかしら? まぁ何ともケナゲなあたしのシナプスたちです。
わたしのために争ってくれるものがあれば もはや、わたしは黙って死んでもよい。 ――ヨブ記 13章19節
今日は学校のキリスト教強調週間の特別プログラム日で、授業が無かった。 講師でいらしたH先生の講演を拝聴し、グループ別自主活動をして、 クリスマス礼拝で歌うハレルヤの練習をして、最後に感想文を書いた。 グループ別自主活動で、あたしは点字聖句作りを選んだ。 視覚障害の方々のおられる教会に送るのだそうです。 そこであたしが選んだのが、↑の聖句。旧約聖書のヨブ記から取った。 点字の基礎を習って、地道な手作業。 とっても楽しかったです。
何故この聖句を選んだのかは、よく分からない。 友達がいないという訳でもないし、寧ろ良い友達に恵まれている。 あたしは世人に胸を張って言えますよ、 あたしの友人達は、きっとあたしの為に争ってくれると。 同じように、あたしも友人達の為に争うだろうと。 ……ああ、だから選んだのかも知れませんね。 色々な多くの人々と出会って、話して、心を動かして、 心の自然淘汰の結果、繋がることが出来たのが、今の友人達なのだ。 人は一人では生きられないというのは、本当だと思うのよ。 幾ら冷めたあたしとは言え。 一人で生きていく人生は、心の輝きが足りなくて、薄っぺらい価値観に埋もれてしまうでしょう。
新約聖書で好きなのは、ミステリアスでオカルトチックな『ヨハネの黙示録』。 旧約聖書はどれも殆ど好きだけれど、何故か『コヘレトの言葉』に強く惹かれる。
コヘレトは言う。 なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。 ――コヘレトの言葉 1章2節
こんな言葉で書を始めたコヘレトは、
若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。 青年時代を楽しく過ごせ。 ――コヘレトの言葉 11章9節
と言う一方で、
心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。 若さも青春も空しい。 ――コヘレトの言葉 11章10節
と、否定をする。 コヘレトの言葉は辛らつで、やけに重たく響く。
太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。 ――コヘレトの言葉 2章20節
彼の人生に、一体何があったのだろうか。 カミュの小説と似たような哀しさが、私の心を捕らえて放さない。 けれどこうして彼の言葉を深く捉えようとする私の行為すら、 彼はただ「空しい」と言って否定するのだろう。
ただし見よ、見いだしたことがある。 神は人間をまっすぐに造られたが、 人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。 ――コヘレトの言葉 7章29節
|