祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を表す 奢れる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ
日本史の授業が漸く源平時代にやってきて、とても心が弾む。 壇ノ浦の合戦の話を聞いていて、改めて死の恐ろしさを感じた。 建礼門院徳子が入水したものの浮き上がってしまい、 それから出家して寂光院でひっそり亡くなったというのを聞きながら、 彼女は入水する時、怖くなかったのだろうかと思った。 誰しも死は怖い筈なのに、武士やその妻だというだけで、潔く命を捨て去った時代。 彼女とて、時の中宮ではあっても、人並みに死は怖かっただろう。 それが漸く決心して入水したと言うのに、浮き上がってしまって 源氏方に捕らえられた時の気持ちといったら、どんなに悔しくやり切れなかったことだろう。 しかも彼女の最愛の息子、安徳天皇は、母の二位の尼と遥か水の中……。 その時、安徳天皇の御年僅か7歳だったのだ。(※年齢訂正1/24) 母としても、武家の長女としても、彼女の辛さは計り知れない。
二位の尼といえば、幼い安徳天皇を腕に抱き、 「海の下にも都がございます」 そう言って波間へ飛び込んだことで有名だ。 あたしは今までこの台詞だけを聞いて哀しいと感じていたが、 よく考えてみれば、彼女は孫と心中した訳だ。 それも人として、どんなに酷いことであろうか。 普通、この現代の世で考えれば、自分の命は投げ打ってでも子供や孫を助けたいものである。 それが、自ら子供や孫の命を絶たなければならないのだから。
あたしは最近、以前にも増して死ぬのが怖くなった。 世の中に対する希望や将来に向ける期待というのもさほど無くなってきたが、 『生きる』ということに大分、執着心が出てきたような気がする。 正直、昨年の大変な時期は、死にそうになっていたのだが、 今こうしてまともな精神状態にあっては、死というものがまるで現実味を帯びない。 いつかあたしも死ぬんだろうか、でもそれっていつの話? このように、『死』というものが自分の生のベクトルの上に存在することさえ容易には考えられないのだ。 これはまぁ、喜ばしいことなのだろう。 たまに「いつ死ぬか分からないから、一日一日を大切に生きよう」と言う人がある。 しかしそんな考え方はあまり好きじゃない。 死ぬことなんて考えてたら、生き生きできない気がする。 『死を覚悟した潔さ』も当然あるが、それよりもあたしは『生しか見えない無鉄砲さ』の方が好きだ。 その方が幾分、人間らしい。まだ、10代だしね。
これらのことをダラダラと考えていて、何となく気付いたこと。 ひょっとしてあたしが小さい時から何故か『源氏物語』より『平家物語』に惹かれたり、 『東海道中膝栗毛』より『忠臣蔵』に夢中になったりしていたのは、 その中に命の煌きがあったからなのかも知れない。 確かに読み易いエッセイ感覚の『枕草子』よりも、 遊び人光源氏の君が喜怒哀楽している『源氏物語』の方が好きだけど、 やはり『平家物語』ほどには引き込まれない。 近頃の小説を読んでいても、『生』の含まれないテーマには惹かれない。 至極当然の話かも知れないが、やっぱり『生』は永遠のテーマなのだな。 短い命故の燃え上がるような煌きが良いか、 長い命故の静かで広大な煌きが良いのか、それはあたしには絶対分からん。 でも、生きている以上、精一杯には煌いていたいものだ。 あたしにも生まれて来たことを後悔したことは何度もあるけれど、 せめて死ぬ前、自分の人生を回顧して、 「ああ、あたしの一生はこんなに多くの人と出来事で豊かだったんだ」 そう思えるような生き方をしていきたい。
若い日々の、ちょっとした希望です。
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