街を歩いていて、まぁ世の中には何とリマインダーの多いことかと思った。 色んな物という物が溢れかえっているのに、 律儀にも我々はその殆どに何かしら記憶というものが連結している。
しかし、更に考えてみた。 リマインダーをリマインダーたらしめる為には、更なるリマインダーが必要なんじゃないかしらん。 えー、だからまぁ、喩えを出してみるならですなぁ。 お店でリンゴを見て、実家に植えていたリンゴの木を思い出すとする。 この場合、実家のリンゴの木の記憶を誘発したお店のリンゴがリマインダーとなる。 しかし、お店のリンゴをリマインダーとして機能させる為には、 「リンゴ=実家のリンゴの木」という連想を生むものが無ければならない。(と思うのだが)
そう考えると、
『真のリマインダー ≠お店のリンゴ =「リンゴ=リンゴの木」という連想(を生んだもの)』
ということになるんじゃないかしらん。 そんで、こうした連想を生み出すのは脳細胞であるから、 まずリマインダーという定義自体が随分エゴイスティックなんじゃないかと思ったのです。 まぁ夏目漱石を気取る訳じゃあないが、人間なんて純粋なるエゴイストに他ならないよー。 でも純粋すぎて己のエゴイズムに気付いていないのだろう。 んー、何ですかなぁ、「存在している」ということ自体、 地球から見ればエゴイスティックなことなのかも知れんですな。
夏目漱石で思い出した。 先日、古典演習で『蜻蛉日記』を少々やりまして、ハマっちまいました。 スゴイ、藤原道綱母。 平安時代に自我に目覚めてしまった女性というのは、文学という視点を除けば とっても可哀相だったかも知れない。 封建的な物言いで、 「女が学をつけるとろくなことが無い」 と言うじゃあないですか。 あれは自我に目覚めてしまうと大変生きにくいからなんだろうなぁ。 男性としても自我を持った女なんか扱いにくいだけだろうし。 しかし現代から見ると『女大学』なんつーのは怪しからんな! 誰だっけ、熊沢蕃山? ……違うなー、もっと何か胡散臭い人が提唱したんだった気がする……。 あー、朱子学の学者覚えなきゃー。うえー。 たくさんいるのでまったく困ります。困窮とほとほ。(新造語?)
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