| 2002年09月06日(金) |
生命倫理におけるクローン |
日記を書けないのと書かないのとでは大違いである。 と、つくづく思い知りました。 普段から真面目に書いちゃいないが、 自分がぐうたらしてて書かないのと、 忙しくて書けない(或いは己を律して書かない)のとでは、 ストレスの度合いが全然違うっす。 書きたいのに書けないよーん、となると無駄にイライラするわ〜。 学校でブランクの時に書いてもいいんだけど、 やっぱちょっとでも勉強した方が……とか思うと書けない。 どうせどっちにしろ大して勉強してないんだけど。
本日のタイトルは何を思ったか、大変難しげです。 生命倫理におけるクローン、と。 何でかっつったら、聖書の授業で今回生命倫理を取り上げるらしいので。 最初はクローンとか遺伝子工学とかについてらしい。 医学的な面から考えたら、自分の内臓のストックとしてのクローンはとても有用らしい。 確かに自分のストックだと思ったら良いかも知れんが、 クローンっつっても、やっぱり人間な訳でしょ。 しかも他ならぬ自分な訳でしょ。 それって複雑じゃあないかのう……。
クローンの立場になってみる。 遺伝子的にも全く本体と違いの無い自分。 入れ代わっても誰も気付かないに違いない。 なのに、自分はストックであり、人権も尊厳も保障されない。 本体のコピーとしてだけに作られた。 クローンにも人間の心が備わってるんだから、そういうことを考えるんじゃないかね。 それとも、必要な内蔵とか器官だけを複製するんすか? あたしはクローン技術に関して全くの無知なので、 「人間」を複製するのか、「一部」を複製するのか知らんけどさ。
極論だけど、病気したり、死んだりするからこそ生きる価値があるんじゃないのかなぁ。 いざ病気になったら怖いし、やっぱり治りたいと思うけど、 そういう怖さがあるから生きていけるんじゃないかと思う。 悪くなったら取り替える、とか機械みたいになるのは、あたしは嫌ですな。 別にあたしも早く死にたいのではない。 出来ればずっと健康でいたい(必要以上の長生きはしたくないが)。 倫理的な面のみでの意見ですが、人間にしろ他の動物にしろ植物にしろ、 「複製」という行為は、人間が足を踏み入れてはいけない部分だと思うっす。 複製って怖いよ。 元々を自分が作ったのでもない癖に、作った気になってしまう。 コピーは所詮コピーで、コピーしか作れない者にはオリジナルは作れないというのに。 でも人間は愚かだから絶対に何処かで履き違えてしまうだろう。 そういうことを思うととても賛成できないですなぁ。 なまじキリスト教に触れてるだけに、余計に否定的にならざるを得ない。
クローン技術は、このまま進んでいけば将来的に脳の移植も可能になるらしい。 もしあたしの家族が脳の病気で治らないとなったとき、 やっぱりあたしはクローン技術を以ってしてでも治して欲しいと思うんだろうか。 ……きっと思ってしまうであろう自分が分かるからこそ、余計に反対してしまうな。 こういうことは何処で歯止めを掛けるべきなんだろうか。
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