ここのところツヨシさんの話ばかりで申し訳ないのだが、 もう一つのブログに書くにしては、話の内容が真面目なものなので 敢えてこちらの普通日記の方に書くことにしております。
先程インフォシークとかヤフーとかに用事があってアクセスしたら トップニュースの欄に 「堂本剛 異例の告白」 などと銘打ってあったので、何があったか!?と思って開いてみた。 そしたら昨日がソロツアーの最終日だったそうで、その公演内で 彼が今まで人間不信であったらしいこと、 今後はその気持ちを改めてもよいのではないかと思っているらしいこと、 などの旨を話したそうな。 ファンやってる者からすれば、ツヨシさんがこのような真面目な内的告白をするのは 雑誌でも何でもよくあることで、今更「異例の告白」とは思わぬものだが 彼の「ジャニタレ」としての属性だけを鑑みれば、確かに「異例」ではあろう。
今回のツアーに賛同して下さったバックバンドの方々のうち、 私が名前を存じているのは残念ながら西川進さんだけなのだが、 (バックバンドの方々がどなたなのか、レポ読んで情報収集に回るのが面倒なだけ) 西川さんのオフィシャルHPを拝見してきたりとかして、 まぁツヨシさんは本当にいい方々に邂逅したのだなぁ、と思った。 そのお蔭でツヨシさんが楽しく、幸せな心持に安心して包まれていられるなら 何よりではないか、もう音楽でも何でも好きにするといい、と思う。
ただ、もともとツヨシさん個人が好きだったというわけでもなく、 二人セットの時が好き、という入り方(今でもそうだけど)をしておるので 「人間不信を標榜していた時は、彼の中で光一氏はどういう存在だったのだ?」 という疑念などなどはあるのだが、そんなもん結局本人にしか分からんしな。 っつーか本人にとってすらも、そんなに明確なものではなかろうしな。 全くの他人である上に、一方通行的な関係しか持たぬ私のかかずらうべきことでもないので 特に言及するのは控えておく。 それにこの内容に及ぶと、こちらではなくブログの方に書いた方がいい内容になるしな。 あ、↑の疑念っつーのは必ずしも否定的なものではないですぜ。 「じゃあ相方のことも信頼出来ねーってことかよ、ツヨシ!」 って言うてる訳ではないのであしからず。その逆ということならあるが。 うん、まぁこの話については諸事情あるので日記ではこのあたりで。
最近、私自身も身につまされて思うのだけれど 結局のところ、精神の悩みというのは贅沢なものなのだ。 孤独な人間というのはいない。 特殊な環境にでもいない限り、孤独な人間はいない。 家族がいたり、友人がいたり、知り合いがいたり、 関係性の名前は異なっても、必ず誰か自分に関わる人がいる。 実態の不明な「他人」に対しては疑心暗鬼になろうとも、 「この人は」と思える、信頼すべき人も必ずいるものだと思う。 自分がそれに気付いているか否かは別としても。 そしてまた、信頼すべき人間の多いか少ないかは、孤独とはあまり関係のないことであるとも思う。 結局のところ、孤独は錯覚に過ぎないのだろう。 故に、孤独に起因する様々な問題、 不信とか、悲しみとか、絶望とか……もすべて、錯覚なのではないか。 視点を切り替えることさえ出来れば、治せない絶望などないのではないか。 ま、始点を切り替えることが至難の業なのだよ、という指摘は置いておいてさ。
しかし逆に孤独ではないからこそ苦しいこともあろう。 私がここのところ通過してきたことを振り返ってみても、 一時的な孤独感→孤独ではないことに再び気付く→錯覚した自分に対して嫌悪 みたいなことはある。 周りに素敵な人々がいるからこそ、 周りの人々に何もしてあげられないダメな自分はいなくなればいいのに…… と思うこともある。 ちなみにこの場合、本当に「自分が周りの人に何もしてあげられない」のかどうかは 事実と異なっても、相違なくても(本人には)関係がない。 そんなもん結局、鬱状態だからすべて自分に対して否定的になるのは当たり前だ と言ってしまえばそれだけではあるんですがねぇ。
このように考えていくと、実につまらんことに拘泥しているような気がする。 自分が価値のない人間であろうとなかろうと、何てことはないのにな。 考えたところでどうなることでもない。 というより、そんなもの一度考え始めたら、答えを出すには死ぬしかないではないか。
うーむ今回はそれほど肯定的な結論には至れない。 こういった話になると、人間の本質を定義しなければ進めないのだが 私には人間の本質は定義できない。哲学的にも宗教的にも出来ない。 あらゆることについて否定的な精神状況からくるものかも知れないがね。 基本的にはキリスト教的な定義に傾倒してるんだが、今はそういう気分でない。 ただ、真に孤独な状態は存在しない、と思うと それはそれで、少しは救いになるのではないかと思う。
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