- 2000年09月16日(土)
★09.16-1・ぎくっ……びくびく
★09.16-2・人権
★09.16-3・お知らせ
★09.16-1・ぎくっ……びくびく
at 2000 09/16 16:44 編集
☆上の擬態語は、「バスジャック少年」のことが昨日報じられたときの私の反応です。
何人もの人に言われたし、それはある程度は私にも当てはまっているということを、この少年の場合は、ついに(ある程度なのでしょうけれど)「公に」犯罪と関連づけられてしまったのです。
「インターネットにハマり過ぎて、精神的におかしくなっていった」
でも、オール・オア・ナッシング(カタカナはヘンね(^^;)みたいな見方は幼稚ですよね(^^;
バスジャック少年=インターネットにハマった=>犯罪
私(里花)=インターネットにハマってる=>犯罪?!
みたいな。
「テーマ掲示板」で、「喫煙」のことについてたくさんの人に参加してもらってケンケンガクガクの議論をしています。
(ううっ、なんだか「ケンケンガクガクの議論」なんて、オヤジのセリフじゃーん! それも、政治家かなんかのような「典型的な政治的オヤジ」…… 落ち着け>自分)
どうしても、人は「議論の焦点」に集中するあまり「それが全て(とあの人は言っている)」と思い込んでしまいがちなものです。
(この「人は」っていう「一般論」的なくくり方が、そもそもいちばんの曲者だし(^^;)
でも、そうなりやすい議論の中でも、まるでそのこと自体を修正するため、とでもいうようなかたちで、議論そのものが健全に進行していく、っていうことはあると思います。
うまく言えてないけれど、わかっていただけますでしょうか?
「喫煙」の議論そのものが、そういうかたちで進んでいると思うのです。
こんなに健全な議論ができるなんて、って、私、嬉しくて仕方ないのです。
☆でも、その一方で、ある人からこう言われました。
(元は私がその人に「もう私のページは見に来ないで!!」って言ってしまったからなんですけれど、私がそこまで言ってしまうのって、どういう事態かお察しいただける人が多いのでは?)
>HPを公開していて…、『見るな!』と言うのは変じゃない?
見られたくないのならば…閉鎖しますか?
ご自分の意思でHPを開設し…
ご自分の意思で情報を公開しているのですよ。
☆確かに、「HPの公開」には、ともすればそこに書かれていることをどれほど危険なかたちで反映してしまうかわからない、という側面があります。
それは、「バスジャック少年」の件でも、私の身近に起こったことがらでも、私は今まで以上に気をつけなければいけないのだなあ、と思い知らされるのに充分すぎるほどです。
けれど、「17歳」という未成年で、しかも精神的にかなり調子が悪くなってしまっている人が見てしまうのは何らかのかたちで「規制」することも含めて周囲が「気をつけなければならない」ことでしょうけれど、大人だったら……と思ってしまうのです。
☆昔、「ビートルズの歌を聞いたから殺人した」ということを犯人が言った、という事件がありました。
私自身がまだ子どもだったので、「わー、ビートルズの影響力ってすごーい」などと脳天気に驚いたりしていましたが、今はそれどころではありません。
犯人が憎いです。
だって、その発言が元で、ビートルズの曲がたとえ1曲きりだったとしても「放送禁止」になってしまったのだとしたら(実際、なったことがあったらしいです;どこの国のことかはよく知らないけれど)、……
犯人は、「精神の自由」を多くの人から奪う、という二重の犯罪を犯しているのです。
自分勝手な思い込みのせいで!!
そうして、(もしかしたら「精神の自由」が少ない子ども時代を送ったのかもしれない)私が最も嫌うのが、この「二重の犯罪」なのです。
☆前述の「HPを公開していて『見るな』と言うのは変」と言った人に、改めてお答えします。
≪他人のHPを見ても、その結果に対して自分で責任を持てるようになるまで「自主規制」してください。
自分で規制できないのだったら、他人に規制してもらってください。
あなたは、私の「精神の自由」を犯そうとしています。
それは、実はあなた自身の「精神の自由」を、自ら手放すことにつながるのです。≫
私は意図していようといまいと「盗作」が許せないの。
時には、たった一つの過ちが二度と許せないことだって、あるの。
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タイトルと本文が合わなくなってしまいました。
私はそれほどまで、悔しい思いをしているのでしょうか。
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★09.16-2・人権
at 2000 09/16 17:04 編集
「人はすべて、生まれながらにして自由、平等の権利を有する。」
中学校の公民で教わりますよね。
日本人なら、誰でもこのことを知らなければ国民としては生きていけないから、わざわざ「義務教育」として教えるのですよね。
でも、人権には実は「保留条件」があるのです。
人権が与えられるのは、「自由」や「平等」をそのとおりに「使いこなせる」人に限るのです。
だから、まだ上手に使えない「子ども」は「保護者」によって人権を制限されながら早く使いこなせるように、と教育を受けるのだし、
他人の人権を奪ってしまった「犯罪者」は、自らの人権を大きく制限されるのです。
時には命さえも!
「使いこなせる」という書き方をしましたが、少しはっきりした言い方をすれば、「責任」と「能力」、と言い換えてもいいでしょう。
また、人権が奪われるときの決り文句は、たぶんこういう一言に集約されるでしょう。
「この者(たち)に人権を持たせていても、使いこなすことはできないだろう」
正当であれ、不当であれ。
黒人が公民権運動の中で主張してきたのは、「黒人はあなたたち白人が思っているような、人権を享受する責任や能力を欠いている人種ではない」
ということに尽きるでしょう。
人は、自由のために生きる。
お互いに自由であるためにこそ、お互いが平等でなくてはならない。
今、私はこのところずっと囚われてきた
「人は自らのエゴのために生きる(だから他人や、まして他の生き物や物質のことなんか、知ったこっちゃない)」
とは、少し次元の違うところでものを考えているようです。
はっきり言って、「エゴかどうか」はこの際、問題にしたくありません。
人間の「責任」も「能力」も、おのずから限界があるので、それを超えることまではわかるわけがないのです。
限界の外側から見ればいかに人間が全体として愚かであろうと、それはおのずから「制限」されていて当然なのです。
大切なのはむしろ、
今知っていることに対して、どれだけ誠実であれるか
なのではないでしょうか。
私自身、ここ半月ほどの間に、それまでは知らなかった、知ることもできなかった、多くのことを知りました。
でも、私は、「知った」ことに振り回されるのではなく、それらのことに対してどれだけ誠実であれるのか、に敏感でありたい、と思います。
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★09.16-3・お知らせ
at 2000 09/16 17:43 編集
*きっと、トップページを見ずにここに来る人も多いと思うので*
常連さんなんかのほうが気付いてない人が多いかもしれないけど、
(だって、私自身がめったに更新しないから(^^;)
「お役に立てば嬉しいリンク」
に2件ほど重要なページを追加しました。
見てね♪
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