悲しみは怒りに、憧憬は妬みに、いつしか変化してしまう。 最初は「怒り」とか「憎しみ」とかじゃないはずなんだ。 始まりはきっと黒い気持ちなんかじゃない。 なのにどうして。 なんかいつの間にかねじれている。 泣いていたはずなのに、 いつのまにか「それは誰のせいだ」と考えていて憎もうとしている。 きっと心の底でうらやましいと思っているのに、 「あれは悪だ」と自分を正義にしている。
テレビの中で、大人たちがヤジを飛ばし合いながら、口論している。 「だからふざんけんな!」 「そうだ!いいかげんにしろ!」 何のための言葉なのだろう。 相手を納得させるため? いいや、こんな言葉で納得させられるはずがない。 相手をねじふせるため? でも、大声で罵声で相手を萎縮させただけの優位なんて、一体何だというのだろう。そんなものは一時、相手を黙らせるだけに過ぎない。 自分の主張をとおしたいから? だったら訴えればいい。自分の考えを、願望を訴えればいい。 そうだ、最初はそこから始まっているはずなんだ。 それは誰しもが一緒。 けれど、誰でもそれぞれに願望を持っているからこそ、 誰しもがそれを通したくて、だから譲らない。 そうして自分の願いはそう簡単には通らない。 しょうがないのかもしれない。 自分の訴えが誰にも聞いてもらえなかったり、退けられたりしたのなら、 誰だって「腹立たしい」。 でもその前に、「かなしい、そして腹立たしい」とワンクッション置いたなら少し冷静になれるかな。なんとなく。 夢想論か。 だけど、私だけの話でいうなら、きっと少しは冷静になれる。 人に怒りをぶつけるまえに、自分を分析したほうが きっと間違いが少なくてすむ気がする。 どうしたら、人と人って話しながら理解しあえるのだろう。 でも誰でも納得する答えって無理なのかもしれない。 じゃあやっぱり、人が泣くことはなくならないのか。
ちなみに、 いつの間にか自分が偉くなったように勘違いしていて、 突然誰かから注意をうけたときカッとなって怒る人がいますが あれは許容する気にはなれません。 しばらく叱られていない大人は、注意されたことに恥を感じるのか、 人の話を真剣に聞こうとしないし受け入れる気もさらさらない。 聞かないどころか、相手を攻撃するばかり。 人の訴えを聞かない者は、自分の訴えも聞いてもらえない。
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