---□□草原で独り言□□---

2006年11月20日(月) しょうがないのか

悲しみは怒りに、憧憬は妬みに、いつしか変化してしまう。
最初は「怒り」とか「憎しみ」とかじゃないはずなんだ。
始まりはきっと黒い気持ちなんかじゃない。
なのにどうして。
なんかいつの間にかねじれている。
泣いていたはずなのに、
いつのまにか「それは誰のせいだ」と考えていて憎もうとしている。
きっと心の底でうらやましいと思っているのに、
「あれは悪だ」と自分を正義にしている。

テレビの中で、大人たちがヤジを飛ばし合いながら、口論している。
「だからふざんけんな!」
「そうだ!いいかげんにしろ!」
何のための言葉なのだろう。
相手を納得させるため?
いいや、こんな言葉で納得させられるはずがない。
相手をねじふせるため?
でも、大声で罵声で相手を萎縮させただけの優位なんて、一体何だというのだろう。そんなものは一時、相手を黙らせるだけに過ぎない。
自分の主張をとおしたいから?
だったら訴えればいい。自分の考えを、願望を訴えればいい。
そうだ、最初はそこから始まっているはずなんだ。
それは誰しもが一緒。
けれど、誰でもそれぞれに願望を持っているからこそ、
誰しもがそれを通したくて、だから譲らない。
そうして自分の願いはそう簡単には通らない。
しょうがないのかもしれない。
自分の訴えが誰にも聞いてもらえなかったり、退けられたりしたのなら、
誰だって「腹立たしい」。
でもその前に、「かなしい、そして腹立たしい」とワンクッション置いたなら少し冷静になれるかな。なんとなく。
夢想論か。
だけど、私だけの話でいうなら、きっと少しは冷静になれる。
人に怒りをぶつけるまえに、自分を分析したほうが
きっと間違いが少なくてすむ気がする。
どうしたら、人と人って話しながら理解しあえるのだろう。
でも誰でも納得する答えって無理なのかもしれない。
じゃあやっぱり、人が泣くことはなくならないのか。


ちなみに、
いつの間にか自分が偉くなったように勘違いしていて、
突然誰かから注意をうけたときカッとなって怒る人がいますが
あれは許容する気にはなれません。
しばらく叱られていない大人は、注意されたことに恥を感じるのか、
人の話を真剣に聞こうとしないし受け入れる気もさらさらない。
聞かないどころか、相手を攻撃するばかり。
人の訴えを聞かない者は、自分の訴えも聞いてもらえない。


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S.Soraka [MAIL]