ふつうっぽい日記
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2002年11月15日(金) 頑張って踏ん張って。でも無理せずに

義母が鼻から出血し、救急車で運ばれたのは、火曜の深夜10時半くらいだったらしい。義妹から私の携帯に電話があり、そのことを伝えてきた。義妹からのメッセージといえば、まずはメールというのがお決まりだったので「何事?」と液晶の着信表示を見て、気合を入れて応対したのだった。このところ、実家に足を運んでなかったし、バイトのこともはっきり言ってなかったし何か企画モノ(旅行とかもしや、結婚?)などとも思ったりしたのだ。私はといえば、「こんばんわぁ〜」と間抜けな声を出したのだけど、電話の主の義妹の声は震え気味だった。ほんの何秒かで私の声も震え気味になった。主人にも連絡し、主人は義妹に電話をかけて詳細を聞き出し、ひとまず出血は止まったことを確認して思ったよりも穏やかな表情で早めにその日(火曜日)は帰ってきたのだった。深夜12時に再び義妹から今度は主人の携帯に電話があり、「血圧が上がるまで帰れそうにない」と途中報告をしてきた。上が80くらいで、身体は冷たいと言っていた。それから1時間半くらいしてから、また電話があり、なんとか落ち着き家に戻る事ができると伝えてきた。

水曜日はゆっくりと過ごしていたらしく義妹からは連絡はなかったが、私は一日中不安だった。そんな時にバイト先からの「今週の残り(つまり、水〜金は休んでください」という電話は救いの声に聞こえた。木曜日は、主人が風邪で欠勤した。午後2時からエステ予約していたお客さんも風邪をひいたので予約は来週ということを告げてきた。5時からの予約の友人は元気にやってきたので少し元気になってきた私だった。彼女は週末に東京で結婚式に参列するとかで9時の夜行バスに乗るからそれまで時間あるし、夕飯をご馳走(肉じゃがとささみと三つ葉の梅肉和え、すなずり炒め:KAZU作成)した。彼女がエステや食事をしている間、主人は大人しく寝室で風邪と闘っていた。彼女が「ぼちぼち出ようかな」と身支度を余裕持ってしている時に義父と義妹から電話があった(時間差10分くらいか?)父は家から、妹は病院の公衆電話からかけてきたようだった。父は多少(かなり?)酔いちくれていて、一部理解できないところがあったがメインで伝えたかった事(義母が木曜から検査入院することになった)はちゃんと聞き取れた。彼にしては珍しく我が妻(義母)のことを「おばちゃん」と言わずに「○子」と名前で呼んでいたのが印象的だった。

そして、今日の昼過ぎ、入院の保証人関係の書類記入も兼ねて軽いお見舞いのお菓子を持ち、迷いつつも義母の入院している病院に行った。そこは市民病院で、まだ新しい雰囲気があった(実際新しいのだと思う)義妹と3時過ぎに落ち合う予定だったのだけど私の方が先に着き、45分くらい適度な間を取りつつ義母と私は話をした。400mlほど出血したことや、急に出血して上着が赤色に染まって死ぬかと思ったことや、義父は爆睡していたことや、義父は血が嫌いらしいということや、検査は定期的にすべきだということや、元気だと思っていてもどこかで無理していたんだろうということや、義母は自分の母親の老後の世話をすればよかったと今も尚後悔いしてることや、私の田舎の両親も都会の大阪に呼べば老後の不安は減るだろうということなど。たしかに九州は大阪に比べると田舎だ。でも、病院に行くのに車で1時間かかるとか、バスが1時間に1本とか隣の家まで10キロ離れているとかそういうような感じではなく、田舎ゆえ、道路もさほど渋滞しないし、環境もいいし、物価も安いし、食べ物も新鮮だ。老後を過ごすのには最適な環境だと私は思っているのだ。そういうことは、義母には言わなかった。彼女の出身も九州でおそらく私の実家よりも「田舎」だろうと思う。彼女の中では同じ「田舎」の雰囲気としてくくられているのかもしれない。

たしかに、同居といわないまでも身近に両親がいるというのは安心できるし、不安も減るとは思う。でも、田舎の匂いに癒されるというのって私の中では大きい。この先、どうなるか分からないけど、例え九州の両親を大阪で引き取ったとしても、自分の老後は九州に戻り、のんびりとほっそりと過ごしたいという夢は持っていたいなと思うのだった。

この先、どうなるか本当に分からない。
だから、そこにはそれぞれの生き方があるんだろう。
だから、病気もなるし、元気にもなれる。
幸い、今、生きて同じ時間を刻んでいる人、頑張って踏ん張って。でも無理せずに過ごしていきましょう。


KAZU |MAIL