ふつうっぽい日記
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2011年03月01日(火) |
春の前はたしかに冬〜何日か前は冬だった〜 |
気温9度。
ファンヒーターを稼働。 何日か前の雨は、春の陽気が感じられた。 しかし、昨日、今日の雨は冬の余韻が感じられる。 傘をさしながら、手袋を装着しての外出。
何日か前に市のアンケートに回答した。 論点がずれたか?と思いつつも「飲酒運転」について書いてみた。 その二日後、新聞記事に市長のコメントとして「飲酒運転」の言葉を含むメッセージを載せていた。なんだか市民に近い市長なのかもしれない…という期待が持てた。そう思えたのは、私が関心を持って文字をつかまえたからだろうと思う。
何日か前にメールをすべて消去した。 登録アドレスも何人かを残して削除した。 携帯のメールは受信して解決したら(必要な返信を終えたら)フォルダに移動するように何日か前からそうするようにした。
何日か前から、食卓に意識して物を置かない様にしている。
何日か前から、電子ピアノの蓋を開けるようにしている。
何日か前に、市のホームページをお気に入りに登録して、新着情報が分かるように設定した。
何年か前に「新しいふくおかの教育計画」というのをプリントアウトしていた。
今日、「福岡市特別支援教育推進プラン―福岡いきいきチャレンジプラン―(原案)」というのをプリントアウトしてみた。
「新しいふくおかの〜」の中に「福岡スタンダード〜福岡のすべての子どもが身につけてほしい大事なこと〜」として「あいさつ・掃除」「自学」「立志」が挙げられている。 「スタンバード」という「福岡スタンダード」推進キャラクター(バード:鳥をイメージ)もある。
この「スタンバード」言われてみれば、公立小中学校付近の看板で見かけた。「あいさつ・掃除」「自学」「立志」という文字も。
「環境としての大人」というのを、時々私は好んで使っている。 それは「子どもの保護者としての大人」の立場が自然な流れとしてないために、包括するような表現はないか…と何年か前に考え、いつしか私の中では頻繁に使う言葉となった。
児童を支援するという任務にあたっていた現場にも多くの「環境としての大人」が存在。そして「子どもの保護者としての大人」の立場であると思われる方も多数いた。
「見た目」または「自然に想像する範囲」で、私の年齢層は中学生の子どもが家族として存在していても「変」ではない。 夫の年齢層ともなると、子どもが成人していても「変」ではない。 しかしながら、自分という一人家族であることもまったく「変」ではない。 さらに、離婚して母子または父子家庭であることもまったく「変」ではない。 別の視点からすれば、独身である子どもと同居している親がいても「変」ではない。 子供夫婦と同居しながらも孫がいない親がいても「変」ではない。
そういう社会に属している。
そういう社会ではなかった時代に20代、30代過ごしていた大人は焦ったものだと聞く。世間が許さない、世間体を気にする時代。 そういう時代に頑張った世代からすると、子育てもしていないような大人がよそ様の子どもの支援に当たるなどはどういう感覚(神経)をしているのか?と疑問に思えてならないと映ることもあるのかもしれない。
しかし、だからといって、私の中にこみ上げてきた、「人」「もの」「こと」と「豊かにかかわり」、「目的や見通しを持ち、主体的に活動しようとする」「自学」の精神、「自分を信じ、持てる力を十分に発揮し、社会へ参加していこうとする」「立志」の精神を押し下げる必要などないはずである。
「特別な支援を必要とする子どもたちの姿」では、上記「福岡スタンダード」を「人・もの・ことと豊かにかかわり、生活に必要な知識、技能を身につけようとする子ども(あいさつ・掃除) 目的や見通しを持ち、主体的に活動しようとする子ども(自学) 自分を信じ、持てる力を十分に発揮し、社会へ参加していこうとする子ども(立志)」と具体的に掲げられている。 「めざす子ども像 夢に向かってチャレンジする子ども」という言葉もある。
「福岡いきいきチャレンジプラン」 私という一個人も、この土地で「いきいきチャレンジ」する気持ちで、児童を支援するという任務<第2章>を歩もうと決意したくなった今日である。
いろいろなメッセージがあふれている。 自分の関わりたい領域や自分が関わる身近な社会にそれらを読み替え、自分の中でそれを吸収して消化して実践していく(行動する)ことを自分で「実験」して、「振り返っていく」こと。 それが今の社会でひたむきに生きていく理由であり目的なのかもしれない。 だとしたら「他の誰か」の主観的なセリフに翻弄されなくてもよさそうである。
自分を愛そう。 自分に期待しよう。
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