ふつうっぽい日記
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2012年03月16日(金) |
雑感「最後くらい……」を巡らせる |
ある場面で「最後くらい……」というセリフを聞いた。
「最後くらいきちんと……」
できるなら、「きちんと」した感じで最後を見届けられるように持って行きたかったという期待はこちら側にもあるけれども、「最後」は予測不能であり、それまでの積み重ねの一つの結果に過ぎない。
その「最後」の一つの結果に執着してしまう気持ちも分かる。 どれだけ多くの大人が見守っていても、その一つの結果にならないように配慮しても、後から指摘される一つの視点が欠けることはありえてしまうことなのだろう。
「最後だからこそ」なるようにしかならないのだろう。
そして、何かが足りないこと、例えば配慮が足りなかったことを反省点として繋げる時。 配慮すべき事項のリストアップ的なものがなかったのにもかかわらず、そう繋げてしまいたくなることもある。
「こうなった場合はどうするか」 「こうなったことを伝え合う手段はどうするか」 「今、こういう段階であることをどうやって共有するか」
「こうなったら、その時は仕方がない」と、 割り切って気持ちに「ゆとり」を持つことも大切なことではある。
配慮をする余力のための人材が多数配置されていたとしても、配慮すべき流れの筋書きが共有されていなければ、配慮に繋がる行動はできない。
配慮のための人材には「予算」もかかる。予算を得て、人材を得ても、計画的に任用されなければ有意義な反省に繋げる機会は保障されない。
配慮のための人材そのものに、配慮のための筋書きを立てさせる専門職という立場もありえることだろう。
「最後くらい……」 例えば卒業式や何かのけじめをつけるための儀式に、「きちんとした姿」を期待することは「ふつう」なのかもしれない。
これまでにどれくらいの配慮の積み重ねをしてきたか。 その配慮の積み重ねの様子を伝える機会があり、受け入れる価値を感じることができていれば、どんな結果であっても、それまでの流れであることを受け止められたのではないか。
いや、結果よりも過程を重視することがちゃんと尊重されていたからこそ、望ましい納得できる「最後」に期待しているのは周囲の思い込みであることに気づくべきだったのだ。
当事者にとって負担となること、気持ちの面で配慮することに関しては丁寧に寄り添えたはずである。
当事者の関係者たとえば養育者や保護者の気持ちの面での配慮の評価は、やはり、配慮すべき流れの筋書きが必須なのだ。
「最後くらい……」という結果に対する評価は、多層的に、多面的されなければならず、1つのケースとして、実態として共有されていくきっかけに有意味に繋げていかねばならない。 結果の一時的な、表面的な評価にとらわれて、そのものを埋没させてはならない。
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