ふつうっぽい日記
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2013年01月13日(日) 「生活経済学」の学びから

といっても、まだ「生活経済学」の講義視聴は、始めたばかりである。
今月末には、単位認定試験が実施される。
課題提出はゆとりを持ってこなしたが、放送での講義は最近やっと手をつけたところだ。

今学期は、というか、本年度は、パート勤務ががっつり合計半年分。
振り返れば、前年度は5ヶ月くらいのパート勤務だった。
交替での勤務体制ゆえに、がっつり入った年度の次年度は緩やか、その次はがっつりという感じになるのは自然な流れ。そういう決まりにのった体制だ。

パート勤務を有意義に進めつつ、通信制大学での学習。
続くのか?と、少々不安も疑いもあったが、もう4年目か3年目かにさしかかる。
自分のペースで学べるということが、いかに今のわたしのリズムに都合がいいか。
パート勤務で得た収入を学費に充てられるという感謝すべき環境。

さて、今日視聴した「エンゲル」関連の内容。
テキストには書かれてない内容であるが、講師が「エンゲルはこう述べている」と話された言葉。

「小さい頃、関心をもったことは、ずっと関心を持ち続けるものだ」的な。
その関心は自分自身を解放できないとかそういう風な言葉もあっただろうか。
講師は小さい頃から、「お買い物に行きたい」といったことに関心を持っていたそうで、なるほど、今の自分に繋がっているとかそういったつぶやきをされてあった。
そのことを聞いて、わたし自身を振り返る。

母子関係。
家族関係。
その関係周辺を漂う違和感、つかまえにくい感情。

こう書くと、「小さい頃」こんな難しい内容に関心を持っていたのか?
嘘だろうと思うけれど、言葉を知らなかっただけで、ある程度、言葉を知った今となれば、そうなのだ。

3歳くらいの時だろうか。
わたしは母親が好んで育児をしているわけではないだ、と、見て思っていた。
悲しくも母親という役で「生まれてきてしまった」のだな、という理解だった。
このあたりは幼い発想だけれど、大人は生まれた時から大人で、子どもはずっと子どもとして人生を過ごしていくのだと思い込んでいた。
育児というのは一般的に苦痛や苦労が伴うもの。
それを知ったのはずいぶんと後になってからだった。
そういう小さい頃でありながらも、身近な人の表情からその身近な人がどう人生を受け入れて過ごしているのか?ということに関心を持っていた。関心に支配されていた、という方がしっくりきそうだ。
わたしは思った。
「この人(母親)は、子どもとして生まれてくればよかったのに」


「生活経済学」という科目は、パート勤務の領域である障害児支援に直接的な関係はないけれども、共通するのはわたし自身の存在である。一つの「脳」を通過させていく営みだ。


いろいろな学びに触れて、本質的なメッセージを取り込んで、自分自身の中にあるものを自分自身で引き出していきたい。


KAZU |MAIL