ふつうっぽい日記
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2012年12月18日(火) 不満を持つことも、比較することも大切な途上

昨日で年内の学校活動は修了。
11月、12月は週2程度で徒歩圏内の小学校へ学校生活支援ボランティアとして活動した。

短い期間ながら、「支援スケジュール」を管理職に提案してみたり、これまで丸付け等の行為は評価に関わることだからと避け気味だったことを前向きに受けてみるなど自分を試す場として成長させる場としてささやかに活用させていただいた。

週2程度の2ヶ月程度という限られた枠にも関わらず、受け入れてくださったことへ、何よりも感謝。

ボランティアとしてはここ5年くらいの間に3カ所出向いた。
パートとしては上記以外で1カ所。
学生サポーターや地域園芸ボランティア等、多様な人材が出入りすることに開かれている施設もあれば、制度を使うのが初めてであることを強調する施設もあれば、とにかく周知することを重視する施設ありと、さまざま。

さまざまであることが当たり前だということを知っていくと、多少の違和感は気にならなくなる。
違和感には例えば「不満」も含まれる。
そう考えれば、経験の浅い時期にもかかわらず、場数を踏んでいないのにもかかわらず、「不満」を持ってしまうのは自然なこと。

1つを知って、その1つが「こうあるべきこと」だととらわれて「不満」を持って、別の1つを知って「不満」の度合いを「比較」して、また別の1つを知ってそれぞれさまざまであることを知って。

「三度目の正直」とか「石の上にも三年」とかいう言葉の「三」。
なるほどな、と腑に落ちる。

不満を持つことも、比較することも大切な貴重な途上であること。

昨日、ひとまずの修了の挨拶をした。
初めて、3名の管理職から揃って見送られた。
一人はとにもかくにも笑顔で、一人は不透明な次への信頼の言葉をかけてきて、一人は現実的な言葉をかけてきて。

教育的施設は純粋に子どもと関わる時間だけが過ぎていくという場ではない。
事務的な作業にも追われる。
教室からの飛び出しやケンカ等のハプニングが授業時間に起こることも珍しくない。
ある施設の教務の言葉が思い出される。
「教師が少しでも目を離せるということはとても助かること。
ただ、後方に大人がいるというそれだけでどれくらいホッとするか。」

「支援者」というと、実際的に距離的にある対象と密な位置で具体的な手助けをすること(「ヘルプ」すること)と思いがち。
「サポート」と「ヘルプ」は似ているようで違う。
「失敗」が起こったとき、「ヘルプ」は配慮が足りなかったことを反省する。
「サポート」ではその後味の悪さをも当事者と共有する。
当事者は「失敗」は起こりうることであることを知り、その後どうすればいいのかについても知り、同じ失敗を起こさないための努力の意味を知る。
支援者はその後のその努力の姿も見届けられる立場にもある。
だからといって、どうすればいいのかについてあらかじめ何か特別なことを知っておかなければならないということは多分ない。
びっくりした時はびっくりして、冷静でいられる時は冷静のまま。


この2ヶ月。
公立小学校通常学級での入り込み。
担任の先生が、過剰に緊張することなく自然体であったことから、わたし自身の放つ存在感のようなものを逆算する。

穏やかに存在できたことに感謝。
特別に周知されずとも特別に送り出されずとも満たされる気持ち。

活動開始当初の「紹介されない不満」「紹介される満足」の次元(?)が懐かしく思い出された。


KAZU |MAIL