ふつうっぽい日記
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20代勤めていた職場には肩こり等で悩んでいる女性が多かった(気がする) 彼女らは週末、 「お姉さんたちは、今から(いつもの)マッサージに行くから今日はこれで帰ります。」なんて言って退出されていた。行きつけのマッサージ(整体?)に通っている風だった。
他人事だと思ってきた。
が、このところ、肩こりが気になるようになってきた。 心当たりがないわけではないので、気のせいだと収められなくはない。 そして、痛みを感じたとしても24時間ずっと気になり続けるということはひとまずのところ、ない。 しかし、肩こりと頭痛が重なり、軽い頭痛薬を飲んでみて、結果、頭痛も肩こりも落ち着いていったということもある。
「頭痛持ち」みたいな感じで「肩こり持ち」(?)というところまでには達していない。 これまで他人事だと思ってきたこと、さほど意識するほどではなかったことが、はっきりと意識できるようになったということ、それなりに動揺、ダメージを感じられるということは、感覚の機能としては正常な営みなのだろう。
日々の活動というのは、その活動がどれくらい自分に刺激、負荷、負担を与えているのかをいちいち仮説を立てて実践、実験しているわけではない。 活動の後に、痛みや苦痛、違和感、疲労感を感じて、意識されてから、活動の結果と結びつけた時になってから、あれこれ振り返ることになる。 難しいところは、同じ程度の負担が継続されると差を感じられなくなって、それは過去にとっての負担や刺激の程度とは異なるということ。
強くなりすぎると、少々の弱さの感覚が分からなくなるのかもしれない。 「これくらいのことで気にしないの!」なんて誰かに言えちゃうのかもしれない。
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昨日のボラ活動。 別の場所で、別の関係性の中で 「何度も同じことを注意されません」と、指導を受けていたパターンを目撃した。
注意された、つまり叱られた子は、何度も同じことを注意されたという自覚なんてなかったと思う。注意する立場、つまり指導者は、意識して選択して言葉を発しているから「同じことを言っている自分」に立ち返りやすい。自覚しやすい。 人は、行動を変容させるための声かけは何度も何度も言うが、褒める、認めることを伝える声かけは多分、何度も何度も言わない。 もしも、褒める、認めるといったポジティブな声かけも注意を喚起する声かけと同程度にされていたら「何度も同じことを注意されません」的な言葉はさほど使われないのかもしれない。 「何度も同じことを注意されません」は、「何度も同じことを注意させられている」活動が苦痛で疲れるからなのだろう。
人はある行動を正しく行えるようになるためには、他者からのフィードバックが必要だ。 フィードバックの質的条件や量的条件は、人によって違う。 そのところが多くの人を相手にしているとなかなかわかりにくい。 少数を相手にするとわかりにくかったものがわかりやすくなる。
多くの人を相手にしている場合の6回と少数を相手にしている場合の3回。 例えば12人中の6人と6人中の3人とでは割合が同じだけれど少数の方が目立つ。
血液型による偏見も同じだ。 日本人はざっくりA型40%、O型30%、B型20%、AB型10%の構成比だと言われている。AB型は偏見的に二重人格なんてことがなぜか言われている。ただ血液という次元でA型の抗体とB型の抗体の2種を備えているというだけで人格という次元になぜか繋げられる適当さ、いい加減さ。 もしも、それぞれの血液型の知人が100人ずついたら、そういったいい加減な偏見は係留点にはならないだろう。めったに目にしないという数だからこそ、ちょっとのいい加減な当てはめをしているにも関わらず、引っ張られてしまう。 血液型別でささやかれている特性みたいなものは、誰にだって大なり小なり持ち合わせているものだ。
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ある一つを自覚することから、繋げられていく道は、一本であっても、その太さ細さも様々。
血管を労ろう。 血管ってすごい。
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