ふつうっぽい日記
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2014年06月26日(木) |
あるとき、ふと、繋がるということ |
「あれは、だからなんだ!」ということが、後になって、腑に落ちるということがある。 さきほど、それがあった。 ノートにメモしようかと思ったが、こちらに書いておくことにする。
あれはわたしが高校生だった。(まだ「私」が頑張って「わたし」を抱えて&隠していた時期である。書き手は「わたし」である) なりゆきで、私と母とボーイフレンドの3名でボードゲームか何かを一緒にすることになった。 今思えば、奇妙である。 母もボーイフレンドも楽しそうであった。 わたしは彼らの楽しげな表情につられるようにして笑顔を表出していた。 空気を読んでいたのかというとそれは分からない。 穏やかな雰囲気の継続を期待していたのだと思う。
しかし、変化が起こった。 「私」の中でである。 しかし、その変化は「わたし」が隠されたままを継続してしまう。 つまり、抑圧されていったのだ。 もっとも、その時「抑圧しよう」という意識はなかった。 苦しみを出し切れなかった。 灰汁を出し切れなかったのが後にまた引きずるのだ。
人間は苦しみを回避しようとする。 継続を止めようとうまくまるめこまれてしまう。 そうやって、「今」をやりすごせる賢さを備えているのだ。 あえて前向きに表現するならば、「とりあえずこれはコッチに置いて」おけるのである。 しかし、厄介なことに「じゃ、今からあの時コッチに置いた問題に向き合うとしますか!」と潔い機会に恵まれるということは多分ない。
話を戻そう。 「私」がゲームの途中でトイレに立った。 自然な生理現象である。 しかし、自然は感覚を鋭敏にするのだ。
母とボーイフレンドの笑い声を聴いた。 無性に嫉妬心(後になってこの現象名と結びつけられる!)が沸いたのだ。 ボタンを押すと柔らかいボールが飛び出すちょっとした玩具があった。 私はそれをボーイフレンドの顔めがけて放った。 目のあたりに当たった。 母も目撃していた。 母は猛烈に私を叱った。 ボーイフレンドも辛そうだった。
私はもしかすると正直に言ったのかもしれない。 「仲よくしている声に腹が立ったからこうした」と。 でも、もう覚えていない。
それと似たことが対象を変えてあったのだ。 似た雰囲気、空気というのが正しい。 やはり、母とボーイフレンド(のちに配偶者となる)が関係する。 その時も、嫉妬心が盛り上がり、やさしく処分してもよかった何かの紙を勢いよく破ったのであった。 高校時代の似たような雰囲気場面よりも明らかに最近の出来事だけれど、ほとんど忘れてしまっている。 しかし、「嫉妬心」というのは覚えているのだ。
ここで題名に戻る。 何が、ふと、繋がったというのか。
それは母もまた嫉妬心的なやりばのない思いを抱えていたのだと考えることができたということだ。 ここで父が登場する。 父は何かと「うちには息子がいないから」と言った。 その度に母はうつむいていた。 流産した子が男子だったと聞いたことがあった。 その告白はなんだか笑いながら的であったことを覚えている。 そうではないと言えなかったと察する。 聞かされた私と妹は、 「もしも弟(妹にとっては兄)がいたら……」と想像の翼を何度も広げたものだ。 母の前でもそういった話題をなんだか笑いながら的に語ったものだ。 母側としては、カタルシス的な効果になったことだろうと勝手に分析する。 しかも、重そうな内容が目の前の無邪気な子は、なんとも楽しそうに話している。 自分を許そうと思えたかもしれなかった。 しかし、父が時折「うちには息子がいないから」と言うものだから、その度に、許そうとしていた思いが否定されてしまうのだ。
どういう場面で父は「うちには息子がいないから」と言うのか。 たとえば娘たちの結婚の場面。 息子であれば家を出て行くことはないとか名字を継がせることができるとかそういった「近代家族」的な思想であると思うが。 「近代家族」的といえば、父は「会社人間」(企業戦士)であった。 こういった層は結構多いので何も特別なことではない。 「会社人間」を夫に持つ、専業主婦的な妻は役割分業的に家事育児が中心的になる。
「心が渇いた時に読む本」的な本が本棚にあった。 母が読んでいたのであろう。 誰がどんな本を読もうが勝手だろうに、父は 「こんな本を読むな!」的な叱責的な言葉を母に放っていた。 子ども心にこういう場面は鮮明に覚えている。 ただ、何度も何度もこれ的な言葉が飛び交っていたという訳ではない。 私が(わたしが)覚えているというのも、珍しい光景であったからだと思う。 「会社人間」を夫に持つ、専業主婦的な妻は役割分業的に家事育児が中心的になっていた妻がなんとかして気持ちに折り合いをつけようとして選んだのが本であったのだ。 もしかすると、その対象が異性の男性ということもありえたことだろう。 大げんかに発展してもおかしくなかっただろう。 幼なじみであった(もう再会するなんてことはない)友人の両親は大げんかの末、離婚した。
先日書いた内容にも重なってくるが、「専業主婦」というのは優雅なものではないのだ。 内に何かを絶えず溜め込んだり圧縮させる濃密な時間の流れに向き合うのだ。 そう思えば、短時間のパートであってもボランティア的な無償的活動であっても、別の空気に触れて、その空気の余韻を家庭に流すことは賢い術だ。 おそらく「心が渇いた時に読む本」的な本を選ぶ確率は減ることだろう。 読む本くらい自由にさせてもらえたら母の人生もまた奥行きが増したことだろうと思う。
その思いがあるからだろう。 我が家には多様な本を蔵書している。 子育て的な出費が発生しない分、そういった領域に消費してしまっているともいえるかもしれない。
父の息子所有願望。 これに関しては、まだわたしの中では巡らせきれない。 しかし、途中までは巡っている。 父の兄への思い。(もしかして、ここにも嫉妬心が?!) もし、父の兄が独身であれば優越感が彼を支配したかもしれない。 そうか。 我が夫も、妹の夫も弟がいる身で長男である。 兄との関係が不和であることのバランスを取るために、彼は長男である(兄貴という身分である)人たち(娘婿たち)に過剰に心を開こうとしているのかもしれない。 娘として、嫉妬するくらいに。
人生は場を変えて、人を変えて、さまざまな試練を与える。 試練。しれん。 支援。しえん。 試練は支援を与えてくれているのかもしれない。
彼が素直になれない「兄」(伯父)は、わたしにとっては頼もしい存在である。 「弟」(叔父)もまたそうである。
わたしは父から大切なことを学ばせてもらっている。
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