2001年12月21日(金) |
今日は”鬱”でした。 |
今日は一日休みをとった。
風邪とか二日酔いでなく、ただの休み。 何をするというわけじゃない。 ボーとして、一日を過ごした。
月に一度、こうして休む。 風邪をひいて本当に休むときもあれば、忙しさにかまけて休めないときもある。 でも、休めるかぎりは休むことにしている。 計画的に怠惰になる。
家の中、一人でいると、何をしたいということがなくなる。 本も読みたくなければ、音楽も聴きたくない。 そこにいるだけ。 この場で腐っている。 考えることなく、部屋の片隅で丸くなっている。 外の変化に応えず、そこにいる。
不思議なもので、そんな日は食事をしたくない。 食べる気持ちにならない。 生きるための基本的な欲が欠けてしまう。 活動していないので、体が求めないのだろうか? 一人ときは、これで食べられない。
渇きもない。 誰と喋ることもなく、口をあけないから、余分な水が失われない。 チリチリと焼ける痛みが喉の奥であろうが、あまり気にならない。
外は雨が降っていて、濡れた道に水溜りができている。
雨の日は好き。
落ちていく数多の雫を眺めるのが好き。 水滴の、ほんの少しだけ見せてくれる、生きざま。 みんな必ず、落ちて砕ける。 それでも、飽くなく落ちつづけるブザマさ。
地を打つ音は他の音を吸い込んでくれる。 自分だけが雨の中にいるのだと錯覚してしまう。 冷たさと、やわらかさと、潤いをもたらす水も、この場では一人を強調してくれるだけ。
一人で生きられるはずはない。 そんなことはわかっている。 でも、一人になりたいときもある。 矛盾している。
騒がしい静寂。 雨はそんな矛盾を作り出してくれる。 だから好きなのだ。
雨がやんでしまうと、楽しいことがない。 夏だったら、むせ返る熱気に辟易しながら名残惜しむ。 冬のくせに、雪にならないのなら、残るのはただの冷たさだけ。 また、ボーとする。 無駄に時間が過ぎていく。
他の人がいて、はじめて私は生きているのだろう。 自分のために生きながら、他人に寄りかかっている私。 鐘は叩いてもらわなければ音が出ない。 叩く人がいてはじめて価値が出る。 そんなイメージ。そこまで高尚でもないけど。
九時過ぎに、いつもどおり、家族が帰ってきた。 そこへ来て、ようやく動き出す。 『一日楽しかった』仮面をつけて。
自分を見つめているのが楽しいか、つまらないか、そんなのはわからない。 それでも、生きているのだから、楽しいのじゃないかな? そんな答えもわからない。 だから生きている。
他人の前では、『元気』の仮面をつけるため、必要以上に食べる。 食べることが存在の明かしみたいで、たくさん食べることに驚いてくれる。 それが嬉しいのだろう。 だから、一人じゃ食べない。 誰かに見られて、はじめて食べる。
もう休もう。 どうせ明日も休日だ。 今やらなくちゃいけないことはない。 明日、元気になったらやろう。 うん、そうしよう。
そうして、未来に苦しむ。 怠惰は自虐なのか? いつも明日が来る保証はないのに・・・
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