宇宙人がやってきた
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昨日は、療育センターの日。 毎週1回、朝10時から午後の1時過ぎまでを、早期療育科で過ごします。 と言っても、あと1回来週でお終いだけど。
毎回、色々なプログラムが用意されていて 親子で遊んだり、課題をやったり、母子分離で懇談会や勉強会があります。
6月から始まったクラスなので、実質8ヶ月くらい(夏休み等があるので) 2才だった子は3才になり、3才だった子は4才に。 10ヶ月余り、見ていて思ったのは、やはり「早期」であることの意味。
初めは「集まり」の時に座っていることも出来なかった子が、 積極的に手遊び唄に参加したり、好きなプログラムの時は 自分から、椅子を運んだりする。言葉も飛躍的に増えている。 そして「後追い」「トイレ」など、目を見張るばかりの子もいる。
その子たちは、ほとんど2才で入ってきた子たち。 3才(今は4才)の子たちは、目に見えてわかる成長ぶりというのは やはり2才の子たちに比べると、わかりづらいような気がする。 モチロン「成長していない」のでは決してない。 きちんと、その子なりのスピードと内容で、できることが増えている。
個人差もあるだろうし、環境や親御さんの考え方もある。 あくまで私が見たことを、私の主観で表現するだけなのでお許し下さい。
コータは、どうかというと・・う〜ん・・ あそこへ通ったから、こんなに伸びましたー!・・と感じられるものは 正直言って、それほどない。ただ、おおむね楽しそうだったこと、 家では「できない」「思いつかない」ことをやってもらったこと、 そして、何より私自身の為に、やっぱり良かったと思える。
生後10ヶ月の頃には、すでに公園で母に「ハァハァ」と息をきらせた息子。 つまり「多動」がスタートしていて、1才の頃のビデオや写真は 息子の背中を追いかける夫や私、といったものばかり。 だから、家の中のビデオが圧倒的に多い。
まだ小さいから、男の子だから、と自分を納得させながら 他の子とどんどん「違う子供」になっていく息子を 不安でいっぱいの気持ちで見つめるしかなかった。 どんな育児書にも、息子のような例は出てなかったし 「うちの子はそんなモンじゃなかったわよー」と言う先輩ママの話も 息子には当てはまらなかった。「違う、そういうことじゃない」と・・。
1番途方に暮れた、つまり「ひどかった」時期 リスケの出産(リスケが出産したわけではない)も近づいた9ヶ月目、 インフルエンザの予防接種の為、息子を病院へ連れて行った。 その頃の息子は、外では1歩も歩かなくて、抱っこかベビーカーだった。
帰り道、いっしょに行った友人が、病院の前の散歩コースに行こうと言う。 正直、帰りたかったが彼女に車で連れてきてもらった手前、断れなかった。 そこは川沿いの真っ直ぐな道で、珍しくコータも歩き出した。 友人の子は、息子より4ヶ月上の女の子で2才になったばかり。 母娘で川にいる、鯉や鴨を指差しペチャクチャと楽しそうに散歩している。
私は、彼女と会話しながらも少し先を歩く息子を厳しい目で見ていたと思う。 いつ走り出すかわからなかったし、当時は手をつないで歩くのも難しかった。
と、突然息子が走り出した。 「コータ!」と呼び止めるが、振り返りもしない。 全速力で追いかけるが、お腹が邪魔でもどかしいほど遅い。 息子との距離がどんどん離れていく。 友人も一緒に追いかけてくれるが、娘さんを連れている。
息子の向かう先に、大通りが見えた。 車がビュンビュンと走っている、そして右の方から大型車が来るのが見えた時 叫んだというより悲鳴を上げた「コータッ!!」 それでも全く止まらない息子とトラックが視界の中に入り 「もうダメッ!」と思った瞬間、 「誰かその子を止めて下さいっ!!」という友人の金切り声が聞こえ 通りがかった男の人が、息子を間一髪つかまえてくれた。
どうお礼を言ったのかもよく覚えてないが その場で息子を叱った私の様子は、普通じゃなかったはず。 でも、息子は「普通」だった。泣くでもなく、動揺もしていない。 どんなに小さくたって、これだけの親の気迫がわからないなんて 「この子は、おかしい・・・」初めて私が思った日だったかもしれない。
それが原因というわけではないが、早産しそうになり 医者から安静を言い渡され、公園通いもやめた。 その後、約2年公園には行ってない。
あの頃、公園なんかで悶々と悩まず 療育センターの存在を知っていたら、訪ねていたら・・・。 この2年がもっと違ったものに、なっていたかもしれない。
早期に通って、「後追い」や「指示の通る」息子になっていたかもと 言っているのではない。そんな事にほぞを噛んでいるのではない。 ある意味、無駄に苦しんだ2年だった。 「障害を告知される」ことは勿論辛い事。 だが知らずにいて、目をそむけて、いつか治るわけではない。 「受容」と言うらしいが、そんな優しげな表現とは違う感情。
こんなに大切なのに、可愛いのに、どうにも頑張れない自分がいる。 障害がなんだ、と明るく前向きな日の私がいる。 けれど、私を見つめる子どもの瞳は、「ママ」と呼ぶ声はいつでも同じだ。 だから私も、いつでも温かい手で、子どもを抱きしめたい。
健診で指摘される、引っかかる事を恐れないで欲しい。 何でもなければ、いずれわかる。 「何かある」のなら、「いずれ」より早くわかったほうがいいのだ。 子どものためにも、不安な親のためにも。 ただ、真っ暗な中で苦しんでいるより 窓のある、ドアのある暗い部屋の方がいい。 光も射し込むし、勇気を出してそのドアを開けることもできるから・・・。
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