Opportunity knocks
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2002年1月1日の午前12時。 地元の神社にコドモと出かける。 ぼんやりした月が中空に浮かんでいる。 真夜中にしては思ったより暖かい。
地元の神社は結構大きな神社なので 真夜中にもかかわらず、人が多い。 おでんやお汁粉や、お酒なんかを振舞ってくれるので すごくにぎやか。中央で護摩がたかれ、みんな古いお札なんかを 投げこんでいく。護摩の火が赤々と燃えてとても明るい。
初詣を終えて、自宅へ戻るとコドモはすぐ眠りについた。 連れ合いは地元の友達と一緒に出かけて帰ってこない。 しかたないので1人で新年を祝う。 昨日のうちに買っておいたチリワインをあけてこたつに潜りこみ 「ムーンパレス」を読む。
本を読みながらいろんなイメージを頭に思い浮かべた。
行き場も無く、セントラルパークをさまよっているフォッグ。 ロバをひいて砂漠をとぼとぼと歩いている、Mr.エフィング。 墓石の前で止めど無く涙を流す、ソロモン・バーバー。 フォッグとエフィングの言葉を媒体にした奇妙なつながり。 その根底に、もうひとつの強い結びつきがあったこと。
いつもながらの、精密な文章の組み立てにためいきがでる。 いくつもの小さな流れが集まって、大きな流れが作り出され その流れにのみこまれるごとく、小説の中に入りこんでいく。
相変わらず物語は破滅的な方向へと傾き始める。 でも物語は、Mr.エフィングが半生を語り終え、自らの意思で その人生を終わらせた時点で終わったような気がしなくもない。 その後の事はエピローグのようなものにすぎない気がするのだ。 ちょうどフォッグが、Mr.エフィングの長い物語が最高潮に達し、 後に語られるべき事はあまりないのでは、と思ったように。
オースターの小説を読むと、いつもやり場のない感情を持て余してしまう。 出口のみえない道路を限界ぎりぎりまで加速していく緊張感。 そしてその緊張感がぷつん、と音をたてて切れた後の静寂感。 そんなものに包まれてしまう。 個人的にわたしはそういう感情を好まない。何かにつけて物語は ハッピーエンドに終わって欲しいと思っている。ハッピーエンドと いう言い方があまりに安直なら、せめて希望を持たせて欲しいと思う。 オースターの中で「最後の物たちの国で」がいちばん好きなのは、 悲惨な世界の中で、最後の最後に主人公が希望を見出して終わるという最後に なっているからだ。(もちろんそれはわたしの趣味嗜好のモンダイである) しかし、それにもかかわらず(読後に奇妙な余韻を残していくこと)わたしはオースターの文章に魅了されている。 それは、それらの世界にひきつけられる何かが私の中にあるからだろうと思う。 それらがあるかぎりわたしはオースターの小説を読みつづけるだろう。 これから先もずっと。
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そんな感じで新年を迎えました。 この1年もこんな感じで訳のわからない文章を書いていくつもりですので、 すえながくお付き合いくださるようお願い申し上げます。 今年もよろしくお願い致します。
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