新聞の投書欄で、こんな話を読んだ。今どきの「アリとキリギリス」のお話は、いささか趣が変わってしまっているというのだ。
汗水たらして働くアリたちを横目に、夏を謳歌して遊びほうけたキリギリス。冬になり、食うに困ってアリのもとを訪ねると、アリさんは過労で寝込んでいましたとさ。遊び過ぎも働き過ぎも、ほどほどにしましょうね。
なるほど、いかにも今風だ。
「勉強に何の意味があるの? 勉強していい大学行っていい会社入ったって、今どきは一流企業が倒産する時代。リストラだってあるし。だから俺は勉強なんてしないんだ」
そんな能書きをたれる子供に、また一つ言い訳を与えてしまった気分になる。
「人生の意味を考えることはそう簡単なことではないかもしれません。なかなか答えが出るわけでなない。正解が用意されているわけではない。『人生は無意味だ』と割り切った方が、当世風で楽に思えます。
しかしそれを真面目に考えないことが、共同体はもちろんのこと、結局のところ自分自身の不幸を招いている。
(中略)ニヒリズムに走るのは簡単です。しかし、これは非常に乱暴かつ安易な結論です。
病気の苦しみには何か意味があるのか。医師のなかには、そんなものには何の意味も無いとして、取り去ることを至上のこととする人もいるでしょう。しかし、実際にはそんな苦痛にも何か意味がある、と考えるべきなのです。苦痛を悪だと考えてはいけない。
(中略)意味を見い出せない閉塞感が、自殺を始めとした様々な問題の原因になっています。かつて脚本家の山田太一さんと対談した際、彼は『日本のサラリーマンの大半が天変地異を期待している』と言っていました。もはや自分の力だけでは閉塞感から脱することが出来ない、という無意識の表れでしょう。実際には意味について考える続けること自体が大切な作業なのです」
割り切る、死にたがる、というのは楽をしようとしているということ、ね。なるほど。今は毎日が苦痛。でも苦痛は悪じゃない。それはそう思う。むしろ必要だと思っている。ここで苦痛から逃げ出したら、子供と一緒だ。
生きる意味について考えてみるか。
2004年05月23日(日)
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