diary/column “mayuge の視点
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【ことば】心と心で

 特に両親の仲が悪かったわけではない。嫌な男と付き合って、ひどい目に遭わされたことがあったわけでもない。それなのに、まだ誰かを愛するということに、女が男を愛するということに、どこか作りものっぽい、陳腐な印象を持っていたのだ。テレビで垂れ流されていた恋愛ドラマを見ても、ぜんぜんピンとこなかった。世間で評判になっている恋愛小説を読んでも、最後まで読み通せなかった。愛についてのことなんて、何も書かれていないじゃないかと、いつも一人で憤っていた。自分が愛だと思っていることと、世間で認められている愛というものが、別物なのではないかと疑ったことさえある。

(中略)

「私、今、すごく腹が立っていて、すごく悔しいけど、これだけはちゃんと言う。これだけは正直に言う」
 美緒はまっすぐに亮介を見つめた。目を逸らそうとする亮介の肩を掴み、無理やり自分のほうへその顔を向けた。
「……私、愛だの、恋だの、今までぜんぜん信じてなかった。そんなの、それこそ恋愛小説やドラマの中だけの話だと思ってた。そんなことで泣いたり、意地になったりする女たちを見て、ほんとに馬鹿みたいだと思ってた。でも、亮介に会って、そんな女の一人になれるかもしれないって思った。あの小説を読んで、そんな女に私もなりたいって心から思った。本当に、愛だの、恋だの、馬鹿みたいだと思ってたのに、その愛だの、恋だのに出会えた自分が嬉しくて……、でも恐くて……、でも勇気出して……」
 そこで言葉が詰まった。無理に言葉を出そうとすると、涙がこぼれそうだった。心と心でちゃんと繋がることのできる相手を前に、これまで心を隠していた自分が情けなかった。やっとさらけ出そうとした瞬間、お前にはそれができないと言われたようで、唇と噛みしめたくなるほど悔しかった。
 身を硬くして、一歩も動こうとしない美緒の肩を、亮介がやさしく叩く。
「もう、いいよ。もう、分かった」
 亮介が顔を覗き込もうとする。
「……分かってない」と美緒は首をふった。品川埠頭へと繋がっている音のない通りの歩道で、「何も分かってないじゃない!」と、心の中で強く叫んだ。

(吉田修一『東京湾景』=新潮社刊=より)

2004年07月29日(木)

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