土曜日の日記について。 今日改めて表紙の題名を見て、自分でも、何を書いたんだっけ?と思って読み返してしまった。 ・・・確かこれは題名が思い浮かばなかったから・・・書いたことを全部列挙したんだっけ・・・。 でも、自分でも何を書いたか思い出せないような題名を付けるのは如何なものか。
この日記で題名を付ける時、私の留意点は一つである。 「煽りっぽい題名は付けない」 何故か?新着リストなどから題名に惹かれてここに来たのに期待外れの下手な文章が待っている。これではいらした方が気の毒だからだ。
センスのある文章にセンスのある題名。これが正しい姿である(と思う)。 ・・・でもね・・・。ここはそうではないので、センスのない文章にありきたりの題名。ずっとこの方針で書いている。このスタンスが、一番肩が凝らなくていい。このペースでのんびり行こうと思っている。
題名に関するあれこれを、以前そういえばこの日記に書いたことがある。その時は途中の操作ミスで全部消えて、書き直す気が失せたのだ。 題名に関する御託なんてどうでもいいか、と。 でもやっぱりこうして書いているのは、なにかしら拘りがあるからだろう。 それなりに毎回題名で考え込むし(最後には「下手の考え休むに似たり」と開き直って適当に付けるのだけど)文章を読まないでも中身が分かるような題名にしようとか(そうすれば読み返さなくても自分が何を書いたかすぐ分かるし)それなら中身はいらないんじゃないかとか、それでは日記の意義はなんぞや?!とか。
日記って、本来題名は付けないものだ。 今地道に読んでいる「FLOWERS FOR ALGERNON」のチャーリー君も、毎日PROGRESS REPORTという題字を書く必要はないんだ、と言われたし。 でも公開日記だと微妙〜に「私はこう思うんだけど、どう?」とか「こう・・・だよね?」「こうなん(だったん)だよ」といった、不特定多数への問い掛け、或いは報告のようなニュアンスが存在する。 ノートに書く日記なら「これこれこうだった」で終わるのだけど。 公開日記は王様の耳はロバの耳!と叫ぶための穴なのかもしれない。 勿論そこから広がるコミュニケーションも存在するのだから役割は一つではないと思うけれど。 ただの穴ではなくて、相手が生きているからこそ叫べるのだろうけれど。
そして何処かに読んでくれる人がいるから、だから私も書き続けているんだろうな。
それでも題名で惹かれて読みに来て欲しいとは思わない辺り、私も少々屈折している・・・。
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