最強の星の真下

2002年12月06日(金) 日本語会話。

昨日旅行から帰って来た。疲れて眠って眠って眠った。

帰国した途端に仕事の事を思い出し、早くもブルーになっている。
・・・山のように仕事が溜まっているだろうと想像するだけで、もう気力が尽き果てる気がする。
憂鬱だ。

旅行は・・・「疲れた」の一言。3日目から、精神疲労でお腹を下した。
下世話で落ち着きが無く小心者で見栄っ張りの自己中心な英語どころか日本語すら不自由な母を連れての旅行であれば、まああんなものでしょうな。
予想範囲内で良かった。



今回、異国の人の辿々しい日本語を聞いていて思った。
布哇には日本語・・・というか日本語会話が汚い日本人観光客が多い。気がする。

いや、異国の人の日本語会話が綺麗だったという訳では全くないのだが、異国の人が覚えて使う口語が汚い言葉だと何となく目立つので、そこから日本人の口語に注意が向いたのだ。

斯く言う私も、決して美しい口語を話している訳ではない。
自覚は大いにある。
口から言葉が出た瞬間に、「あ、今のは乱暴な言葉」と思う。
学生のような言葉を使うのはいい加減慎まなくてはいけないなあ。と思うのだが、なかなかこれが抜けないのだな・・・気を付けよう。

語尾が途中で消える。
(例:「これはあんまり・・・」あんまり・・・何だ?!と自分が言われる側なら突っ込むだろう)

です、ますの文末で話していない。男言葉。
(例:「そうだね」「違うよ」ではなくて。「そうですね」「違いますよ」或いは「そうね」「違うわよ」でしょうに・・・)

などなど。

イギリス英語でよく言われる、話す言葉でクラスが判る、という話、あれは日本語でも勿論当てはまる。
日本語の日常会話を聞くと、その人のクラスが一目瞭然だ。
たとえ気安い間柄で話している場合であっても、やはりクラスによって使う言葉が違う。

武家言葉、商家言葉など、日本でも昔からクラスによって使う言葉が違うのは当然だったのに、現代でも、少々不明瞭にはなってきたが歴然と使う言葉が違うのに、いつからそういう事が表立って言われなくなったのだろうか。
言われなくなったのは、クラスによって言葉が違うという認識が薄れた所為なのだろうか。
しかし今の時代だって、話している間に、その言葉で、何となく自分と近いクラスか、かけ離れたクラスかを判断しているはずだ。

異国の人は日本語会話を習得する時、どのクラスの日本語会話を身につけたいのかを果たして意識しているのだろうか。
そういえば、ケント・ギルバート(だったかな?)は綺麗な日本語を話していたような気がする。
とあるテレビ番組の“ファニエスト英語何とか”というコーナーの進行兼教師役の外国人は、微妙に綺麗になりきれない日本語を話している。
そういうクラスの言葉を、意識して習得しているのかしらん。


話し言葉って奥が深い。


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桂蘭 [MAIL] [深い井戸の底]

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