2002年12月13日(金) |
二安心。強さについて。 |
良い事があった。 友人の具合が軽快し始めた。病気の最大要因が消えたのだ。 本当に良かった。真っ先に知らせてくれてありがとう。
バランスが微妙な、危うい感じもほとんど消えていた。素人目ながら良い兆候のように見える。 でも、同じ状態に落ち込んだらまた再発するのでは大変だ。根気よく治していってくれるといいなあ。
「桂蘭さんくらい強くならないとね〜ってうちの母にも言われたんだよね。桂蘭さん見習わないとなあ」
・・・・・・。一体どういう認識を小母様は・・・?私何かしただろうか・・・図々しい事とか。あ、遠慮はしない方かも。 思い切り不安になり、思わず今までの小母様とのお付き合いを必死に回想してしまった。
思い当たることはないというべきか、思い当たることだらけというべきか、悩むところだ。
・・・まあいいか。礼を失した行動をとっている訳ではないようだし。小母様はそういうところには容赦のない方だからありがたい。お付き合いが続いているという事は、まあさほど失礼をしてはいないと判断して良いだろう。
ちょうど良い機会なので、人の「強さ」について思うところを書いておこう。
自分が強いか弱いか。そんな事は私にとってどちらでもいい。大した事ではないのだから。
他人の判断に口を出して、「それは違う」とか「その通りだ」とか、そんな事をわざわざ言い立てても、そんな事に何の意味があるだろう。 人によってどう感じるかは違うだろうし、それはそれぞれの人がそれぞれの目で見て、それぞれ判断することだ。 人の「自分像」が自分の認識と異なっていたところで、自分が変わる訳ではないのだから。
自分の認識にしたところで同じ事だ。 自分が強い、と思ってみたところで弱い自分が強くなる訳ではないのだし、自分が弱い、と思ってみたところで強い自分が弱くなる訳ではない。 「強さ」は絶対値でもあり相対値でもある。
今の私が強いか弱いかは知らないけれど、どう言ってみたところで現実の私が変わる訳ではないのだ。 自分で思いこんで自己暗示をかけたとしても、私の強度に本質的な変化がある訳ではない。
私の強度を変えるのは、私の努力のみだ。 他人と関わる事で変わることだって、勿論あるだろう。しかしそれは他人に感化され、自分をこのようにしよう、と思うからこそ変わるのだ。努力はそこにも存在する。
・・・でも本質はどうだろう。 変化するのは強度だけで、本質は変わらないものだと私は思っている。 あと50年生きたら意見が変わっているかもしれないけれどね。
|