最強の星の真下

2003年01月03日(金) 憧憬。

休みの間にすっかり昼夜逆転。
寒さに負けて布団で冬眠。
ごろごろしながら読書三昧。

・・・不毛な長期休暇だ・・・。
それでも時間を持て余すという感覚とは無縁なので、のんびり楽しく無為の時間を過ごしているのだが。

こういう生活をすると「ああもう働きたくない・・・」とか「もう外出るの嫌だ・・・」とかいった気持ちが忍び寄ってくる。
人間、楽な生活に適応するのは早いなあ。



本日のキーワード。『憧憬』。

私は、何かに、誰かに、憧れるという事がほとんどない。
人物に対しては、憧れる前に見習うべきお手本としての特性をまず見出す。
人物に憧れるためには、人一人丸ごとを理想として捉えなくてはならないような気がする。
しかし私にとって他者は、憧れ、よりももう少し、何というのだろうか、自分の手が届く範囲にいる存在、らしい。ある人が見習いたい一面を持っていたとしても、それはその人そのものに対する憧憬には繋がらない。
人間に対して全面的に盲目になれないのは、私の直しようのない特性なのだろう。そんな自分が、実は嫌いではない。この特性を持っていればこそ今まで生きてこられたのかもしれないし。


ここ1年ほど、たまに考える。
人間に対して憧憬を持つことはどうやら私にはなさそうだ。
・・・では何に対しても憧れはないのか?

考える度に行き着く答えは一つ。

どうやら私は、どこか心の柔らかい部分で、「ずっと続く何か」に憧れているらしい。
「ずっと続く何か」が出てくる小説、映画、劇、その他色々な物に、無条件で感情を揺さぶられ、涙を流す自分がいる。
それは「ずっと厳しい自然と闘い続けながら生きる人々」だったり、「遺伝子」だったり、「物言わぬままそこに在り続ける遺跡」だったり、「ハチ公の銅像」だったり、「永遠に時を止めてしまった友人」だったりする。

私自身は、あまり何かに強い執着を持たない方である。
でももしかすると本当は。
一度何かに執着したら「ずっと」執着し続けるのかもしれない。
それを感じているから執着を持つような何かを作らないようにして、ただ「ずっと続く何か」に憧れるだけに留めているのかもしれない。
或いはもしかすると本当に。
何に対しても執着できないからこそ、「ずっと続く何か」に憧れるのかもしれない。
自分の感情が、自分の行動が、自分の精神が、「ずっと続く何か」ではあり得ないからこそ、憧れるのかもしれない。

手に届かないからこそ憧憬となる、のであれば、認めたくはないが、何れの場合でも、私がこの手に「ずっと続く何か」を掴む日は来ないのかもしれない。

幼い頃はもっと簡単に、「ずっと続く何か」がこの世には沢山存在する、と信じていたような気がする。

今、「ずっと続く何か」が実は貴重なものかもしれない、と思うようになった私は、多分、大人になったのではなくて、過剰な自己防衛の心から、色々な物を感じるためのガラス体が曇ってしまったのだろう。
在るはずの「ずっと続く何か」を見る事が出来なくなっただけ。それは「大人」になったからではなくて、心が「老化」しているからだと。そう思う。

眼球内にあるガラス体は、歳と共に紫外線によって異性体が増え白濁する。確かにそれは事実なのだが。
心のガラス体を老化させるかどうかは、自分次第のはずなのに。
いつの間にか気付けばこんなに見えなくなっている。
ただ憧れて。
憧れは私を傷付けないから。



私は、この世を去る時までに、「ずっと続く何か」を手に入れられるだろうか。


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桂蘭 [MAIL] [深い井戸の底]

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