みょうの日記
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一連の事件に関して、私はこれまで一貫して無反応でいた。 なぜなら、「騒ぎ立てること」が犯人がもっとも望むことだと認識していたから。 確かにそれ相応の怒りはあった。 なんて可哀想な事をするんだろう、あんなことは人間のすることじゃない。 許せない、あの虐待にあった子は一体どれだけ怖い思いをしたのだろう・・・。 でも、そのどの感情もある部分では他人事、自分と直接関わりないところでの出来事だと、思っていたことに気づいてしまった。
私は確かに憤っていた。 そして、虐待された子たちの何倍も幸せな逝き方をしたゴンの最期を思い浮かべ、その理不尽さに涙も浮かんだ。 けれど、そのどの怒りも、やはり本当の怒りではなかった。 なぜ、そのことに気がついたのかといえば、2ちゃんで公開されたという猫の写真をTVで見てしまったからだ。 画面に出ていた子は、どこかゴンに似た子だったのだ。 それを見た瞬間、血の気が引いた。 もちろんTVに写っていたのは一番最初の虐待前の写真で、その後のあの子の運命を知らなければ、あどけない顔の可愛い猫の写真でしかない。けれど、あの写真を見た瞬間、あの子とゴンがリンクして、あの子はゴンになり、そして私はあの子の飼い主になった。 その瞬間に浮かんだものは、虐待に対する単なる憤りではなかった。 あの瞬間、私は明確に犯人に対しての害意を覚えたのだ。 「よくもあの子を!」という気持ちになったのだ。 あの瞬間、もしも私が犯人のそば近くにいたとしたら、後先考えずに殴り飛ばしていただろう、それくらいの怒りを感じたのだ。それは、どこかで起こった悲しい事件ではなく、まさに身内を殺された者の怒りだった。
今は落ち着いている。 あの一瞬の怒りは時間が経つほど薄れていっている。 私の怒りは「私のあの子を殺された怒り」から再び「見知らぬ子に対する哀惜と犯人に対する一般的な危惧」へと移行している。 そして、メンタルな面で日本人は本当に未熟であると痛感させられる一連の事件、それに対する法規制の甘さに、非常なむなしさを感じている。 いや、日本人は決して未熟ではなかった。かつてすべての生き物に魂が宿り、一寸の虫にも五分の魂との命のあり方を説いていた日本人は、本来決して諸外国にも劣らぬほどの愛護の心はあったはずなのだ。 果たして、何が狂ってこんな事態になったのか。 していいことと悪いことのボーダーラインを忘れた日本人は、一体どこへ行くのだろうか。
今はただ、ほんの一瞬だけ「私のあの子」だった子が安らかであることを心から祈っている。
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