闇鍋雑記帳
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1970年07月15日(水)

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今日は菩提寺であの子の供養をして貰うことになりました。
戒名はありません。
水子には付ける必要は無いそうです。
ただ、○○家嬰児という名で、お経を読み上げて貰いました。
今まで、体も残らなかった子たちの代表です。

お寺に行く前に、あの子の骨を少し、義父の骨壺に移しました。
「これで、おじいちゃんと一緒に、本山に行けるわね」と、義母もニコニコして言ってくれました。
「おじいちゃんがお守りをしてくれるから、ちょうど良いわ。」とも。

お骨は案外沢山残っていて、爪楊枝ほどもない細い骨が結構沢山ありました。
骨盤も綺麗に残っていて、夫は「結構骨が残っているだろ?カルシウムが沢山体に取り込まれていたんだ。かあちゃんが、きちんと栄養をとっていた証拠だよ」と、褒めてくれました。

正直、こんなに沢山骨があるとは思っていなかったので、わたくしはとても嬉しかったのです。
ちゃんとこの子が存在していた証拠があって、嬉しかったのです。

お経を読んでいただいた後、和尚様の講話がありました。
この世に、親を悲しませようと思って生まれた子は、一人もいない。
でも、図らずしも、この世の光を見ずに産まれてしまった子たちは、何も分からないままいるので、お経を上げてやり、仏様のみ許に遣わせる。
ただ、子供たち自身には罪は全く無いのだけれど、「親を悲しませた罪」が重くて天国に行けないので、賽の河原で地蔵菩薩に見守られて、次に生まれ変わるのを順番に待っている。
だから、水子の霊が祟りを起こすなどと言うことは一切無いので、心配しなくても宜しい。
という事でした。
仏教というものは、何と合理的に考えられているのかという事を、皆で感心しました。

賽の河原で石を積んで、鬼が壊していく・・・という考え方も無いようです。
真宗高田派の教えでは、少なくともそうでない。あくまで、嬰児たちの一時的な魂の避難場所、生まれ変わるための救済の場所であるようです。
ただ、どの子も、どの家に生まれるかは、それは分からない。自分たちの家に再び来るのか、また、別の家の子として生まれ変わるのか、それは誰にも分からないという事でした。

合理的で良い教えだねと、夫。
残された人間に都合が良い教えだと言われればそれまでかもしれませんが、本来宗教というのは、そのように人の心を救済し、不条理感に苛まれた心に、合理的に折り合いを付けるためのものだとわたくしは思っていますので、それはそれで有りではないかと思っています。
事実、わたくしはこの教えのお陰で、ずいぶんと心が救われております。
宗教に、人の心の拠り所を求めるのは悪いことでは無いと思います。
ただ、それに付け込んで、悪者を作って決めつけ、他の宗教や宗派を攻撃したり、救済を求める人の心に傷を与えたり、騙したりして、生活を破壊していくという行為を教義とし、それを「宗教」と呼ぶ事が許せないのです。
また、そうでないと確立できない宗教というものは間違っていると思うのです。

人は常に迷いの中で生きています。わたくしもそうです。
ですが、ちゃんとした宗教は、信者を増やすために勧誘なんかしなくても、ちゃんと求める人が来るのです。
少なくとも、わたくしはそう思っています。

今日で、一区切り。
お骨も、ご先祖様と一緒のお墓に入りました。
皆のお骨の中に、赤ちゃんのお骨が混じっていくのを見て、これで終わったと思いました。
これからは、彼もご先祖様の一人として、家を守ってくれることになるでしょう。
ですが、戒名も付かないので、過去帳には載りません。悲しいけれど、これは嬰児の宿命かもしれません。
でも、わたくしが覚えているので良いのです。
今までの子たちも、全部覚えています。大丈夫です。忘れません。
義母が月2回、全部の親族のお墓を廻って面倒を見てくれております。
位牌などもありませんが、ちゃんと本山にも行けて永代供養もしてくれますし、これで良いのです。

義母が、赤ちゃんと義父が見守ってくれるようにと、義父の形見分け兼お守りとして、一粒ダイヤの素敵なリングをプレゼントしてくれました。
これを見て、あの子や、優しかった義父が見守ってくれると思う事にします。
今頃は、地蔵菩薩の許で、ペネロペの縫いぐるみや、しんかい6500のおもちゃで遊んでいることでしょう。
次に産まれて行くところは、どこかは分かりませんが、幸せになってくれることを切に願います。

南無阿弥陀仏。合掌。


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